◆ 人生の終え方講座 ◆

講座名研究レポート名学問名考察名
人生の終え方講座最善の終焉法について終焉学終焉考察

人生が終わりに迫った時、どうするのが最善か?その答えを示す。

その時が訪れたとしても困惑しにくくなる。
別称、マイエンディングマニュアル。
人生の終え方的な視点で見なくても何かしら良い内容を含む。
そんなでどうでも良いと考えている人も見て損はない可能性あり。



残りのやりたいことをまとめる

まずはそれ。
今やできないことは除外…とはしない。
できるか否かに関わらず、全て思い起こし、まとめる。
その後それをやり進める。
堂々とやり進める。
時間は残り少ないわけだ。躊躇っている場合ではない。
できないかのようなことも、工夫すればできる。
完全でなければどうにでもできる。詳しくは⑤参照。
やりたいことが多く(あるいは重く)、やりきれない可能性が高い場合、やりたいこと(やりたい箇所)の優先順位を決め上位の方からやっていく。
(優先順位は身体の不調の波が降下していくことも考慮して決めると良い)
あるいは全体的に少しずつやる。
そうすると、やりきれずに最期が来てもある程度は納得できる。
やりきれない場合、最期の最期までやっていたい。
満足いく締め方ができるようにしたい。
悔いは残したくない。やりきりたい。
そう思うのは誰しも同じだろう。



今しかできないことをやる

終末期というのは、当然ながら人生経験が最も多い時期になる。
そういう意味では、そこがその人の最高地点。
即ち何かしら、「自分至上最高のパフォーマンス」ができる時。
にも関わらず、そこで何もせずに終わらせてしまったら「もったいない」。
長い人生で培ってきたもの(経験、記憶、考え等)は、何にも代え難い財産。
筆者はそれが「人生一の財産」と見ている。
それを持ち腐らせてしまったら、非常にもったいないことを理解する。
財産を何かしらの形で記録しておくのも良いだろう。
人生の中で自分がしてきたこと、覚えたこと、培ったことの意味を考え、
それが消えてしまう前にそれを活かすこと記録することなどを考えてみる。

せっかくある残り時間を無駄にしてしまわない。
今できる至上最高のパフォーマンス、人生の集大成なる行いを考え、実行してみる。
それを①に含める。



自分で決められるようにする

自分をどうするのかは、「自分」で決める。
最期をどうするか?最期までをどう過ごすか?決めるのも自分自身。
自分にとってそれが最も良い。
「自分(本人)が良いこと」こそが自分にとって唯一の良いこと。大事なこと。
当然ではないだろうか?
しかし対応してくる人は、なぜかそのことをわかっていない…そういうケースが多い。
この社会ではそんなことが見えなくなっている。
だから、自分で決められるようにすることができるよう、前々から意識して注意していると良い。
そうしていることが必要。
人や場所に責任を委託しようと考えている場合、特にこのことを入念に気にすべき。
自分の重要なことを、他者が決めるのはおかしい。
他者が決めるようなことではない。

「他者が決めることはできない、決めさせることはできない」ものと(それくらい強く)思っていて良い。
よく「自然な安楽死」を求められる社会になったが、それによりそれが絶対とみられ責任者にほぼ問答無用でそうされ兼ねない。
それが絶対というのはさすがに違う。
先に望みがなかったら気持ちは真っ暗。。
望みを信じ多少の苦を覚悟で最期まで治療したいと考える人も当然いる。
注意。
何にしても苦を伴わない最期はない。
自分自身がどう思っているか?その本当の気持ちが全て。
それは他者側からしてみたら、聞かないからにはわからないこと。
当然なのだから、忘れてはならない。
難しいようでも、聞き出せる可能性のある方法を全て試す。そこまですると良い。
意に沿わないことをしたら肝心なその人は苦でしかない。



意欲を持ってしたいことをする

最期が近づくと、それに伴い、体が機能停止する準備に取りかかる。
それに伴い、体のあちこちが不調になる。
それにより、いずれは寝たまま動かなくなったり何もしなくなったり本当にほとんど眠っていたりなど少しずつ生を失った状態により近い状態になってくる。
生を失うと寝たまま動かない。それに近い状態でいる時間が少しずつ長くなっていく。
生きている状態を保たせるだけで毎日精一杯だと感じるまでになってしまうこともある。
最期を迎えるということは、それくらい重みのあること。
「唐突に全機能停止するようなことはない」ものと思っていていい。
(しかし当然、そうでない場合もあり。その場合の終え方は「意外な場合」↓を参照)
機能停止しようにも、そんなに軽くできるものではない。それもそれで難しいこと。
誰だろうと鼻で笑って見過ごすような人は、不謹慎極まりない。
不調がずっと続く。波があってもある程度の期間総括的に見て不調となる。
その波は降下していく。
そうなると当然、心が憂鬱になり、気力も活力も失ってきてしまう。
不調で辛く苦しく、自分から逝きたいという気持ちにすらなってくる。
…そういう気持ちになるのも、準備段階で体が体を機能停止させるために仕掛けた「罠」のようなもの。
好調であったころ、どう思っていたか思い返してみて、そのころの感覚を重んじてみてほしい。するとわかる。
やりたいことがあった。生きたいと思っていた。それなのにもうそう思っていない。だとしたらおかしくないか?
「こうなってしまったらもういい」そう思ったら、こうなる前のことを思い出そう。
いままでの自分を冷静に思い出そう。
気力をなくしたり逝きたくなるのは、弱みに負けているだけだとみれる。
負けていいのか?まんまと罠にハマったきりでいいのか?考えてみてほしい。
負けていい、何もしたいことはなかった、早く逝きたい、心からそう考えているのなら、このポイントは読み飛ばして結構。
抵抗することなく、あえて罠にハマるようにすればいい。
それはそれで悪いことではない。世界に良し悪しはない。
しかしそうではない人の方が多いように思う。
まだ生きたいのなら、その罠にハマってはいけない。
せっかく生きている。そのことを忘れてはならない。
不調だどうだで何もしないことは命を軽んじて生を踏みにじるようなもの。命を蔑ろにはしない。
何もしないでいたら、ただただ苦しみに明け暮れ、憂鬱でいるだけ。
最期を迎えるにあたっての恐怖心も抱き続けてしまう。
不調でも動くか何かしていた方が気が晴れる、憂鬱・恐怖心も忘れていれる。
その方が普通の意味でも案外楽なもの。
不調でも自分にとって人にとって良く思えることをやろうとしてみる。
今命があることを重んじてみて、やりたいことやりたかったこと、無理ならそれに近いことなど何かを頑張ってみると良い。
さほど頑張らなくとも、どんなでもやっていられること生きがいを得られることはある。
そういったことを認識し意識して考え行動に移してみると良い。
最期の最期までなんとかして活動し続ければ、誇りを持って締め括れる。
良い最期を飾れる。
最期が迫り意識を失うその瞬間まで気力を捨てないことを目標にしたい。
このことを忘れてはならない。
いざその時に忘れていたら元も子もない。
罠に引き込まれ、心の底から自分で諦めた時が最期という可能性もある。
意識がありながら1日飲食しないかった場合、その人は罠にハマって生を諦めたに限りなく等しい。
何せ最期が近い即ち弱っている状態でそうしてしまったら、明日はないことが想像つく。




できなくなっても、工夫してやる

普通、最期はふと突然訪れるような軽いものではない。
たいていは苦を伴いながら少しずつ身体機能が落ち、それを失っていく。
即ち最期が迫れば迫るほどに…難しいことが増えていく。
あれこれできなくなる。
しかし、できないと断言して言うのはおかしい。
工夫すれば大概のことはできる。これ、本当。
やりたいと思っていること、やれるといいと思っていること、ほぼできる。
それを理解しておくべき。
それがわからずに落ち込む人間が幾度。
メンタルにも良くない。
やりたいと思っていることは、やれないと諦めず、なんとか工夫してやれる方法を考えてみる。
落ち込みメンタルを病んだら良いことなど何もない。
機能が落ちないよう、失わないようにすることは肝心。
年齢による場合なんかは特に→長生き講座⑨の実践をする。
これは、それでもいずれどうしようもなくなったらの話になる。
工夫とは具体的にどんなか?機能が失われたら具体的にどうするのが良いか?
それを示したものは↓の各身体機能が低下した際の助言になる。



死後のこと

「個人的な考え」になるが参考までに示しておく。
不愉快に感じられる方、異論がある方もいるかもしれません。いや、いるはずです。
その方に対し、先に誤っておきます。申し訳ありません。
最期を迎えたら、その時で終わる。
その先はない。
その先で、できること、感じとれることは何1つとしてない。
自分の培ってきたものも記憶も消滅し、本当に何もない。
だから基本、その先を気にすることはない。
本人は何もなくわかならいのだから、葬儀やそれに付随するあれこれなどは何もやらないのが最善。墓もいらない。
そういうこと(死後の処理)に多くの力を振り割るのはどうかと思う。
命ある今に全振りする」べき。
事情により全振りとはできない場合(この社会ではそうなりがち)、そうしようとするくらいの意気込みを持っていればまあいいだろう。
消滅の前に、「培ったもの」を全力で役立てたりする。持ち腐らせない。
できることなら、遺体などゴミ箱に捨てられて終わりで良い。(社会が国が法律が邪魔だということをわかっていない無能と勘違いしないこと)
常識に囚われていなくてもいい。
凡人達が思っている「国の常識通りを貫くことが善だ。それこそが正解だ。」という認識は、個人の観念でしかない。
頭が働かず、自分の考えを持てない人の認識は皆それ。
よくいる宗教の思想を信じている人は反論したり馬鹿にしたりしてくるだろうが、
最期を迎えたら記憶がなくなり、それまでの記憶・意識・自我に基づいた行動が何もできなくなり、知人と話ができなくなることは否定できないでしょう。
だから、生まれ変わろうが何だろうがどうあれ、そこで終わりに等しいと見れる。
例の宗教の思想を知らないからそう言ってる馬鹿などではない。
葬儀などは本人不在だから価値が薄いというだけでなく、たいそれたことであるのも大きな難点。
生まれた時から自分が行うと決められた葬儀を始めとした死後の処理を嫌でも避けて通れない「人生の大事」として見てそれに苦しませれることがある、
大事であるが故にその時悼ませることをさせないようにさせる、それがこの社会。
それが人の定めた「社会」、即ち「常識」になる。
大金投じて行う大事、儀式。大儀式。
儀式は実質何があるわけでもない。
その大金と労力を楽しいことに割り振ってみた方が良いとは思わないだろうか?そう思った人もいるだろう。
なら、やらなければいい話。
…ほとんどの人は大人達に従うままに成長し、そのまま流れに乗って淡々と生きているだけ。
そのようなことは考えもしない。
葬儀を生前に行ってしまうか、本人不在を自覚し遺族のためのものとして行うなら多少良いと見れる。
そんなでもなく、常識に基づいてやりたい、そうすることが本当に良いと思うのなら、そうすればいい話。
それがだめだとは言っていない。
よくよく考えたら良くないという気持ちがあるのに義務だと信じてやること、
嫌々やる(あるいはやらせる)ことは馬鹿らしいことなので、極力やめたら(やめさせたら)いいと言っている。




人生のエンディングを考える

以上のこと全てを踏まえ、終末期~最期の理想のイメージを「物語として」固めておくと良い。
そのイメージは「人生のエンディング」である。
①(やりたいことのプランのまとめ)だけでエンディングのイメージはまだ出来上がっているとは言えない。
①~⑥などを参考にあなたが出した最善の形が理想のエンディングになる。
あなたの理想はあなたにしか導き出せない。
即ちそれを作り上げられるのはあなたしかいない。
即ちここからはあなたしだい。

上手いことエンディングのイメージ通りになることはないかもしれない。
何せ体のどこがいつどう融通利かなくなるか?命の期限がいつなのか?それを判断することは難しいこと。
どこの誰であろうと、正確に判断することはできない。人体は神秘。
しかしれっきとしたイメージを持っていれば、ある程度そのイメージに近いエンディングにすることができる。
それでも十分とみて良いだろう。
意識してしっかり計画し、あなた自身の、素晴らしい、最高のエンディングを作ろう!


◆ 意外な場合 ◆


「一般的な人の自然な最期」を基準にそれに即した人生の終え方を↑までで「基礎知識」として示した。
しかし一般的でない、自然でない場合もある。
その場合の人生の終え方となると、違ってくるところがあるので、以下で様々な場合に即した終え方も示していく。
↑は↓でもある程度応用できる場合が多いので、どんな最期でも↑を基礎知識として把握しておきたい。



? 突然逝く場合

そういうことも〈可能性はある程度低いながら)ありえる。
いくら最期など程遠く感じていたとしてもありえること。
人生の中ではどれほど強靭な身体であろうと即終焉に至るほどの大ダメージを食らう可能性がある。
心臓、脳に見事にヒットすれば中ほどのダメージでも即終焉になりえる。
そういう場合、①~⑦で述べたことは意味をなさなかったりもする。
そんなでこの場合はこの場合として別に何か考えておく必要がある。
何を考えておき、どうしているのが良いか?
それは「常に①のようなことを軽くでも意識し、実行しておく」こと。
現時点で終わりなったとしたら心残りになりそうなことを、できるだけ少なくしておきたい。
突然とはいえよ、数日、数時間、数秒くらいは時間が残されているかもしれない。
「数秒くらいは確実にある」と言っていいだろう。
その時間で人生のエンディング(⑦参照)をやる。
時間がないので、考えていなかったら何もできずに終わってしまうことでしょう。
なので数日でできるエンディング、数時間でできるエンディング、数秒でできるエンディングをそれぞれ予め考えておく。
体がどう融通利かなくなるかもわからないので、同じ時間に対応するエンディングでも複数考えておくと、なお良い。
それくらい。
残念ながら普通に人生のエンディングをやるような時間はない。
そんなで、このケースだと残念感ある…
そう思いきやしかし、そうでもないとも考えられる。
時間がない代わりに、苦しむ過程がほとんどない。
全くないということはないだろうが、死ぬ苦しみを味わう時間はほんの少しで済むわけだ。
それの方が良いと考える人もいるだろう。
どう考えるかはその人しだい。



? ボケて逝く場合

ボケがある程度進行すると、自分を失ってしまう。
やりたいこともわからなくなり、そういったことを考えることもできなくなる。
肉体よりも先に、心(中身)が逝ってしまったような状態。
その状態になるということは、ある意味では自分が死ぬということに等しい。
そうなると当然、自分のエンディングはやれなくなってしまう。
残念極まりない。
そんなで「ボケない意識」は常に持っていること。
年齢問わず持っていると良い。
よくない行動の蓄積が、軽いボケを呼び、将来の本格化にまでも繋がってくる。
それでも防げるとは限らない。
ボケを予兆するようなことがあったら、その意識をとにかく強める。
それでも予兆があったとなるとどうあれ、歯止めが効かなくなる可能性が十分あるので、自分を失ってしまう覚悟も持ち…その時点で、エンディングを試みる。
しかしそれは本当にエンディングになるかどうか不透明であるため、仮エンディングという位置づけにする。
多少でも自分を自分の培ってきたものを自分の意識を失ってしまうと、完全なエンディングがやれない。
だから少しでもボケの兆候が表れたら、すぐに仮エンディングを行うこと。
念を押して言うが、「自分を失ったらもう遅い」わけだ。
ある程度いってしまったら、生きていたとしてももうそこに自分はいない。
体という容器の中に自分は入っていない。
本来の姿は戻ってこない。
だから、この意識は忘れてはならない。
最期が迫り、ボケをその最期まで食い止められそうな見込みがあれば、改めて本エンディングを行っても良い。
ボケが進行してしまっていた場合も、その時に残る自分を引き出し、もう1度改めて行っても行わなくても良い。
完全でない形で1度行っているならば、未完全で構わないだろう。
すでにボケているがどうしてもやりたい場合、未完全ながらやるしかない。
唐突に自分を失うほどボケることはないため、やろうとしていればやり損ねることはない。
自然にはないが、外傷などで唐突に失う可能性は僅かながらある。
その場合は突然死と同じことなので、?を参照。
老いて逝く場合特に、これになってしまう危険性がある。



? 致命的身体障害を追った後に逝く場合

エンディングに体を動かすことを取り入れたいケースは多い。
その場合、こうなると残念ながら満足いくエンディングがやれなくなってしまう。
体を動かすことがエンディングの中核に入るような場合は、残念でならない。
?の意識を忘れずにいれば、いくらかは救われるだろう。
老化により自然に動けなくなること、病気により少しずつ動けなくなることもある。
ただそれらの場合、唐突ではない。
これからだめになるほど動けなくなることを予兆したら、その時点で仮にエンディングを行うこと。
その際の仮エンディングは、動くことのみを取り入れる形でも良いだろう。
ボケて自分を失ってしまう(?)よりかはいくらかあれ。
何せ肉体の中に自分は入っているわけだ。
肉体がだめでも、心は自分は生きている。



? 自殺で逝く場合

それを試みる場合、実行する前に、例のエンディングを考える。
衝動的になっており、エンディングだとか考えるどころではないケースもあるだろう。
その場合でも、なんとか冷静に考えてみる。そこがポイント。
で、実行するのは「エンディングを行ってから」にする。
すると、自分のやりたかったこと、それをやる喜びを見つめられ、自死願望はなくなる可能性が高い。
衝動的に逝ってしまうのは誰にとっても良くない。考えてみることが大事。
エンディングを行ってもその願望がなくならないようならば、実行すればいい。
エンディング後なのだから、ある程度心置きなく逝けるだろう。
まあ良いこと。それが最善の答え。
個人的には、その答えになることはあまりないと思う。
もう1つ、アドバイス。
せっかく自ら逝くくらいなら、命がけでやってみれることがある。
それを本気で試みている試みることができている状態というのは、凄い勇気を持っている状態。
「「その勇気」」を別のことに応用してみれば、凄いことがやれるはず。
応用も実験も何もせずに、ただ単に自死してしまうのはもったいない。
もったいないことである。
念頭に置いておいてほしい。
それを思い描いたら、高揚してこないだろうか?
その高揚心は、生きる気力に等しい。
逝きたい願望は薄れるだろう。
生きた方が良いことを実感できる。
命がけでやれる挑戦的なことを考え、それをやり全うすることを考えてみる。(ある意味危険な考えでもある)
それが本当に命を失い兼ねないことで、実行後本当に逝ってしまったとしても、単純な自死よりかは良い。
やりたいこと、意味のあることをやり、それを全うしたことやり遂げたことになる。
今自ら逝くことが最善なら構わない。
エンディングとこれを合わせて考えるのもあり。
…やったら終わってしまうわけだ。
だから、こういったことを考えるべき。
考えてからにしてみるべき。
逝くことが良いという結論に至ることはあまりない。
実は後悔する行為になり兼ねない。
豊かな人類文明を育てること、またはそれを維持することに協力すること。
命には限りがある。その限りある時間の中でできる限りそうすること。
それが、各々の人間に託された使命。(個人的な見解)
その使命に基づいた行動をすることが、価値のあること。価値の創出。
自然と命が尽きる時を待たずして逝くことは、使命を破棄し、生み出すことに関わった者の期待を裏切りその者の気持ちを踏みにじる行為。
短い時間で大きな価値を創出することはできない。
価値の低かった人間、使命を破棄した人間、使命を託した生みの親(神か何かはわからない)の気持ちを踏みにじった人間…で終わってしまう。
それで終わってしまったら当然、結果として残念な人間。人間としての評価は、残念。
これはあくまで個人的見解。
それとは逆の見方もあるだろう。
どんな見方も考え方も、できないことはない。
どんなふうにも考えられるわけだ。
正解はない。



? 知力を持たない者が逝く場合

ある程度知力がないと、本講座の意味が理解できない。
即ち、エンディングをとり行うことはできない。
…他者が行ってあげることはできる。
要求のままに動いているため嘘のない淳な存在。他でも何が良いのかある程度わかる。
それでもそれは本人が希望しているわけではないので、得られるものは大きくない。
ただそういう者は、思考による楽がなければ苦もない存在。
不幸かというと…
それはそれでそうも言い切れない。
人間以外は全般的にこれに該当。
人間でも該当者はいる。
ボケて知力を失えば知力を持たない者になるが、この場合は本質的に知力がない。
そもそもそれが本来。
知力を引き出すどうこうの話はなく、それに関して残念なことはない。


◆ 各身体機能が低下した際の助言  ◆


⑤で述べたように、普通に人生を終えるとなると、その前には身体機能の低下があるもの。
「最期を迎えた後」が、身体機能が最も低くなった状態(0とする)になる。
100を健全な状態とすると、100から間をすっ飛ばして0に移行するわけがない。
機能が低下した状態で生きる期間を伴う。
ただ、どれだけ低下した状態がどれだけの時間続くかなどは場合により大きく異なる。
これに対する助言(講座)。
これらの助言は特に、最期視点ではない視点で見ても役立つことがある。
全ての部位に対して言えることだが、自力でできるのが、誰にとっても良い。
各部普通に使えているとわからないが、使えているということは素晴らしく良いこと。
多少でも機能が残っていたら、使わないともったいない。即ち、使う。
どこの部位も、機能が弱っても完全になくなっていないのなら、それを活用していく。
そうすることが「誰にとっても良い」ことだろう。
そんなで皆そうするもの…と思いきや、そうとも限らない。
自分で機能が残っていること即ち残りの機能を使って多少でもできることがわからない、
あるいは周囲の人がそれをわからないために諦めてしまっているといったケースもある。
そのためそういうことなどを念頭に置き、注意すべき。
機能がないならしかたがないが、少しでもあるのなら使い「自力」ですると良い。
しっかりと理解し、それを忘れずにいることがまた大事。
聞いて理解しただけ、でもなく、実行する。
でないと意味がない。
「低下した身体機能」を挙げ、それに対する助言をしていく。
複数の機能が低下することも当然ある。というか、そうなっていくもの。
いくつ該当するようになろうと、「できることが何もなくなる」ことはない。
何もなくなったとしたら、それは何も認識できない植物状態のようになったということ。
そうなったら、自分ができないことを認識することも何もない。
下部のフレーム内は、人が生きがいを感じられることの中の一般的なことであるそれらが、その機能が低下してもできるか否かを示したもの。
×も絶対できない、あるいは楽しめないわけではないことが幾度。
どうすればできるかは、そこの助言を参照。



? 歩く

- 常人の半分未満に低下 -
転倒を恐れ極力歩かないようにする人と、受け入れ難かったりで無理にでも従来通り歩こうとする人とがいる。
その人の考えや人間性しだいで異なる。
転倒で怪我を追ったら、増してや増して歩行機能を失い兼ねない。
前者の人は、それを避けられる可能性が高い。
しかしながら、あまり歩かないことにより、少しずつだが脚の筋力が衰えていき、損失度合いが高まっていってしまう。。
後者の人は、その筋力の衰えをある程度抑えることができる。
しかしながら、当然高い転倒のリスクを追うことになる。
即ち、どちらが良いとも言えない。
歩きすぎず歩かなすぎない(両者の中間)程度が無難。
それよりも良いのは、転倒をせずに歩けること。
「転倒リスク0」に限りなく近い歩き方をマスターすると良い。
筆者なら、その方法を模索し見いだしてマスターするようにする。
具体的な方法は、歩けなくなってみないからにはなかなかわからないが、必ずあるのではないかと思う。
安全な歩行法はある。
非常に時間がかかる、非常に疲れるなどの理由で歩かないのはある程度しかたがないにしても、転倒が怖い理由で歩かないことは避けたい。
どうしてもあれなら、四足歩行しても良いだろう。這って移動したって良い。
それなら、そもそも転倒も何もない。
多少手足の筋力トレーニングにもない。
外でやることはできないが(社会のルール違反?)、家の中ではできること。
人間だからといってそうしないことに固くこだわっていたら馬鹿らしいだけ。
家でそうする分には、社会に姿を晒すわけでもなんでもない。

- ほぼ損失 -
手や胴体が少し動くのなら、四足歩行や這って移動すること滑って移動することができるだろう。
そうすることで、介護されることを避けられるのなら、するべきであろう。
這ったり滑ったりで移動できるようにできる経路を作ったり、目的地までの距離をできる限り短くすれば、増して移動しやすく良いだろう。
工夫すれば1歩圏内に必要なもの全て配置できる。
そのことも忘れてはならない。
重要なものはトイレ。
それも1歩圏内に配置できるもの。
1歩の距離のものとの間を仕切りで仕切ることもできる。
金はかけなくてもいい。
工夫すればすぐに簡単にできること。
また、水の中なら歩ける?
立てる深さの風呂に入りれば、歩く感覚を再び味わるかもしれない。
脚のトレーニングにもなる?
無重力空間なら、もっと自在に動けることだろう。
だが無重力空間…というのは今のところ、地球上になくそこへ行くということは現実的でない。_
歩いて移動できることもできない身からしてみれば素晴らしいが、手がある程度動くのなら、それだけでも「いくらでも」役立つこと楽しいことができる。
そのことを忘れてはならない。
あと散歩、ドライブ、観光的なことは1歩も動かなくとも(即ち歩く機能を持たなくとも)思いのままに思う存分できる。(ネットがあれば)
当然のように思う人もいるだろうが、世代によってはあまり認知されていない。
…そのことがあまりにも惜しい。
知らない場合、しっかり把握してほしい。
夢が叶ったような気分になる人もいるだろう。

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××



? 聞く

- 常人の半分未満に低下 -
何か補助をするなどして自分の聴力を上げるか(道具ではなく手を使うだけでも効果あり)、耳に取り込まれる音量を上げても良い状況にするか…
工夫すれば簡単にもっと聞こえるようにできる(普通に聞けるかもしれない)ことを忘れてはならない。

- ほぼ損失 -
その他の感覚が機能しているなら、それだけでかなりのことができる。
充実して過ごせる。
会話も電子機器を使用すれば存分にできる。
皆していることなので、ためらうことはない。
聴覚を使わずにできる充実した過ごし方を見いだし、その過ごし方をして生きると良い。_

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×



? 見る

- 常人の半分未満に低下 -
これに関しては、その力を使うことにより鍛えられるようなことはないかもしれない。
それでも、使う。
何せ少し使えるだけでも全く違う。
それほどに尊い機能。
時折休ませることを心がけることで、機能の低下を抑えることができるかもしれない。

- ほぼ損失 -
1番厳しめなことかもしれない。
何もできないわけではないが、できることがかなり限られてしまう。。
五感で最も重要なものはこれではないだろうか?
映像鑑賞↓は実はできる。できている。
夢で。
夢を見ている時には映像を見る。
視力がなくても映像を見ることができているわけだ。
その時に見える。
そう理解すると、それが多少の気休めになるかもしれない。
現実で見る映像も夢と同じものと考えると、現実と同じくものを見ることができている。
どちらの映像も脳が作り出し感じているもの。そういう意味で同じ。
想像で作り出す映像もそう。
多少リアリティに欠けても、それらとある意味では同じ。
読書↓は、できないが読んでもらえば理解できる。なので△
人に読んでもらわなくても、電子媒体ならCPに読んでもらえる。
少し手間がかかるが、紙媒体を電子媒体にすることもできる。
五感にはまだ触覚、味覚、嗅覚があるが、最期にそれらの機能を失うという話はあまり聞かないので割愛。
本当に間近に迫ったら失うのかもしれないが、その時には意識もないのでわからないのかもしれない。
と思ったが、味覚だけ入れた。

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×××××××××



? 味わう

- 常人の半分未満に低下 -
最期に失うことはあまりないかもしれないが、一応。
味を良く感じやすい方法を探りみつけた方法を実践する、感じやすい物を探りそれを味わう。
どう感じにくいかは、いろいろあるかもしれないが言えることはそれ。
どの機能も少しでも生きているなら、それを生かし喜べる。

- ほぼ損失 -
食事は「楽しむ」という観念を捨て、体を良くすることだけを考えて行うと良い。
味がなければ「好き嫌いもない」ことになるわけだ。
それが思う存分できるチャンスと考える。

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×



? 思考

- 常人の半分未満に低下 -
言わばボケた状態。
楽しむことはできる。
思考力をあまり使わずにできる娯楽はある。
役立つことなどは…さほどできないかもしれない。
しかしそういうことをするべきだと思う思考力も落ちていると予想できるので、苦を感じることはあまりないのではないか。

- ほぼ損失 -
思考能力が完全になくなった人というのは…植物状態と言ってもいい。
ほぼ苦楽はなく、何をすることもできない。
苦から解放されているため、それはそれで残念なこととも言い切れない。

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××××××××



? 記憶

- 常人の半分未満に低下 -
一部の覚えていることを活かして楽しんだり、活動したりすると良い。
案外重要なことを覚えているかもしれない。
新規で記憶ができないとしても、それが記憶の全てではない。
過去の記憶には尊いものが紛れているはず。
メモを「自分の脳の記憶領域」と位置付けた上で、覚えておきたいことを書いておくのも良い。

- ほぼ損失 -
記憶能力が完全になくなった人というのは…植物状態と言ってもいい。
以下?の損失と同じ。

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? 話す

- 常人の半分未満に低下 -
1ボケて話す能力が落ちた、2衰弱により喉の筋力が弱り聞き取れる声が出しにくくなった、3喉付近の病気、のどれか。
1:?へ
2,3:(その状況に置かれてみたいと確かなことはわからないが)一音一音注意して話す、(抵抗ないなら)マイクを使うなどすればまともに話せるかもしれない。

- ほぼ損失 -
最期が迫ることによって完全に話す力がなくなる即ち声が出なくなるようなことは間際も間際にならない限りないように思うが、一応記載。
言葉を発することができなくとも、それだけならいくらでも有意義に過ごせる。
ただ、話し好きで言葉が武器、声が命というような人もいる。
そういう場合、無念なこと。
しかし、声が使えなくともいくらでも有意義に過ごせるそのことをまず理解して念頭に置いておく。
忘れない。
?で述べたように電子危機でなら話もできる。
↓2,3

書き物映像鑑賞音楽鑑賞読書工作ネット電子創作電子ゲーム会話食事ウォーキング観光ドライブ
×



? 持つ

- 常人の半分未満に低下 -
1重いものがだめなら、乗り物に乗せれば自力で運べる。
2軽いものでもだめなら、持つ物あるいは手(指)に滑り止めをつけたり、ゴムで指に留めたりでもすれば持てるかもしれない。
上手く動かない場合、壁などを伝いながら動かせば上手くいくかもしれない。
本がめくれない場合、ページを切ればそのページを取って見れるかもしれない。

- ほぼ損失 -
どこか体の動く部位を利用すればなんとか応用できるかもしれない。
2↓

書き物映像鑑賞音楽鑑賞読書工作ネット電子創作電子ゲーム会話食事ウォーキング観光ドライブ



? (字を)書く

- 常人の半分未満に低下 -
できない理由はいくつかあるだろうが、手を壁やテーブルなどに密着させる、両手を使う、
ペンをゴムで指に留める、手以外の体の動く部位を応用するなどすれば書けるかもしれない。

- ほぼ損失 -
ボケて字を忘れたか、細かい動きが全くできないかになる。
後者なら、電子機器を利用すれば自らの手で文字を打てる。
これは手で書かなくても書けるとみても良い。
前者は、文字以外でも伝えることができることを幸と考える。
どうにも伝えられない人は酷くボケた状態と思われる。
即ち?へ。

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? 座位

- 常人の半分未満に低下 -
捕まれるものをつけたり、枕を押し込んだりでもすれば起きれるかもしれない。

- ほぼ損失 -
そこまでの人は寝たきりの状態と思われるが、リクライニングを自ら上げ下げできるようにすれば起きれるようなもの。
即ちそうすると良いしかし、そうしている人はあまり見かけないように思う。
ドライブ↓は必ず楽にできる方法がある。
ほとんどのことがそうだが、望めばできる。

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(11) 飲む(嚥下)

- 常人の半分未満に低下 -
心してゆっくり飲めば大丈夫かもしれない。
その意識を忘れ、なんとなく飲んでしまわないように注意。そこもわりと大事。
案外、純度の高いものほど上手く飲み込みにくい。
そこでそういうものは純度を下げるといった道理に基づいたことに注意することも大事。
固いものほど飲みにくいように思えるが、そうとも限らない。
普通に食べると咀嚼が大変ではあるが「飲み込む」際には溶けているので、そういう意味では柔らかいものとさほど変わりない。
咀嚼が難しい場合でも、舐めていれば溶けるため食べれないということはない。そこもポイント。
食べ物とあらば、固くとも唾液だけで溶かすことができる。
唾液ですぐに流動食と同じ状態になる。
咀嚼ができないとなると難しい。
それはボケているせいだとすると、このこととは無関係。
上手くやれば十分、食事を楽しめる。

- ほぼ損失 -
管を入れてでも生きるか否かは「その人自身の意向」しだい。
デメリットを伴うことをやる場合、メリットがそれを上回り体に良いのか否か、慎重に見極めて決めること。

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(12) 排泄

- 常人の半分未満に低下 -
やりに行くことが難しい場合と、体の機能的に難しい場合とがある。
前者の場合、?に基づいて移動できるようにすると良い。
工夫すれば、必ず行けるだろう。
後者。
薬は頼ると機能が低下する恐れがあるので、それは最終手段とする。
薬に近い効果が得られるとされる飲食物を用いることで安定を図れればそれが良い。
ただそれは効果が薄いので薬の代用のようになるかどうか不透明。
管を用いれば間違いなく排泄できるわけだが、機能がさらに低下する恐れがある上、動きにくくなってしまう。
即ち非常にデメリットを伴うので、薬を含めての最終手段。
上手く隠すことで普通に見えるようにすることなどはできる。

- ほぼ損失 -
薬を含めての最終手段をやるしかない。
やらなけば逝くが、それでも良いだろう。
どうするかは「その人自身の意向」しだい。

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 まとめ 

書き物映像鑑賞音楽鑑賞読書工作ネット電子創作電子ゲーム会話食事ウォーキング観光ドライブ
歩く↓××
聞く↓×
見る↓×××××××××
味わう↓×
思考↓××××××××
記憶↓
話す↓×
持つ↓
書く↓×
座位↓××
飲む↓×
排泄↓



最期の訪れがほんの少し、待ち遠しく思えたのではないか?
「最期を迎える人への対応法」という視点で見ても十分良いだろう。
これを参考にアドバイスすれば、何か本人にとって良いものを引き出してあげられるかもしれない。
最期を迎え、逝去した人間というのは、「最後の苦難を乗り切った人間」。
大変なことをやり遂げた存在。
その頑張りは出産をやり遂げた人以上かもしれない。
…称えてあげてもいい。




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