◆ 長生き講座 ◆

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長生き講座最善の長生き法について長寿学長寿考察

最善の長生き法とはどのようなものか?そのなんとなくの答えを示す。



皆、興味があることだろう。
たまには生きたくないという人もいるが、大多数の人はそうではない。
筆者は物心ついた時点から常に↓こういったことを意識してきた。
本講座はその意識してきたことをまとめ、れっきとして形にしたもの。
即ち、これもまた筆者の長い人生が詰まっている内容と言える。
任務(やりたいこと)をやりきりたいが、やりきることはできない。(詳細→人生講座 まとめ管理人 人生の目的・夢
そんなで目指すはそれを「やりきる」ではなく、「いかに多くやれるか」だ。
多くやる上で最も重要なことは、「生きる」こと!
ここの内容は、筆者としては珍しく、確かな理論に基づいていない(絶対だという根拠のない)ものが多め。
予めそこを理解し注意してもらいたい。



生きたい気持ち、老いたくない気持ちを強く持ち続ける

すると、本当にそうなれる。
なぜかというと、この世界は多少「意識」の影響を受ける。(詳細→素粒子
「自分の体」に関しては、その「意識」を生む心と密着しているために特にそう。(影響を受ける)
筆者はそう見ている。
もちろんのこと、確信はない。
それでも個人的に思う最も大事なことは、これ。気(意識)の持ちよう。
そうなりたいと強く思っているということなので、引き寄せの法則も多少働く。
まあこれはだいたい皆が皆思っていること。
なので、疑問を浮かべた人もいるかもしれない。
肝心なのはその思う気持ちの強さ。
たいていの人は、そんなに生きること、老いないことに「心から執着」する理由がない。
そのために、心の奥底からそう思っている人は少ない。
体はしだいに老いて使えなくなっていき、挙げ句の果てには終わりを迎える。そのことは絶対。それを避けることはできない。…そう信じてやまない気持ちがあることも大きい。
社会で散々そう言われているから、人は皆老いを認め生を諦めるような心がある程度は出てしまっている。
早い話、「生きる」と強く思えばいいということだが、、そう簡単にはいかない。
それに執着する理由がない場合、それほど強くそう思うことは無理に近いだろう。
どうにか理由を作ろうにも、意図して作れるものでもない。
まあそれでもそれを作ろうと意気込んだり、老いず生きると強く思うように意識していれば、心に奥に届いていないにしても多少効果があるものと見る。
なのでそれがポイント。
老いず、生きる。それは即ち不老不死のイメージになる。
極端なレベルだが、そのくらいの強い意気込みを持つと良い。
昨日と今日を比べてみても何も変わらないでしょう。即ち明日も今日と変わらない。
昨日、今日、明日の続きで時が進んでいくわけだ。
そう考えるとずっと何も変わらないイメージが持てないだろうか?
逆に生きたくない気持ちを強く持ってしまうと、自ら逝かなくても体はかってにだめになる。
生きることに投げやりになったり、生きることを諦めるようなモードになったり、ネガティブになることも危険。
…こんなことが最も大事?“意外”あるいは“馬鹿だ”とそう凡人は思うことだろう。
このようなことは一般的ではありませんからね。
凡人は一般常識しか受け入れない。一般常識大好き。
具合いの良し悪しも気の問題、病気なんかも自分の気が引き起こしているものとも思える。
自分の気、即ち意識の力が、自分を戒めている。
人の多くは自滅している。
そうはわかっても、意識のコントロールは難しいので、そう簡単に自滅を防ぐことはできない。それが現実。



目標を持つ

すると生きる価値を見いだせ、それを感じながら生きられる。
生きる価値を見いだすということは、生きがいを見いだすことであり、喜びを見いだすことでもある。
生きがい、喜びがあると生きたい気持ちが芽生える。
まず目標がないと、到底強く生きたいとは思えない。即ち①で述べた通りにできない。
目標は未来の夢なので、未来にワクワクもする。
するとネガティブを押し退けポジティブ心も芽生える。
ネガティブ心(苦)は心へのダメージになるので良くない。(詳しくは④を参照)
本気の目標を持て生きる価値を見いだすと、生きることに必死になれ、夢中にまでなれる。
目標があるとともかくプラス。
世のため人のためになる目標や、自分が世を去った後も残り続ける目標、また自分が「好き=得意」なことをして目指す目標だと、特に良い。
単に自分だけのための目標だと、案外喜びも生きがいも生きる価値も感じにくい。
人のために行動すると、気持ちが上がり、その上でその行動により恩を与えた人達から喜びを移してもらえる。
即ち自分のためよりも人のために行動した方が、大きな喜びを得られる。自分に大きな喜びをもたらす。
自分とともになくなってしまう目標は、そこでなくなってしまうためにそのことを思うと大きな価値観、生きがい、喜びを感じにくい。
基本、好きと得意は等しくなる。
好きなことというのは普通、得意だから楽しくて好きになっている。
やる上でそういうことだと、モチベーション、喜び、生きがいを感じられる。
そういうことでない場合、とてもやっていられない。。
「好き」に該当するかどうか。それが目標を設定する上でかかせない審査項目。
自分にしかできないこと(一際得意なこと等)があるようなら、それをすることを使命と見て見逃さず、目標に結びつける。
目標は変えることもできるので、それほど重んじて決めなくても良い。



体に苦しみ(痛み)を与えない

痛みも再生不能、あるいはすぐに再生しなくなるほど度を越えてしまわない程度なら、鍛えられたり免疫がついたりし、逆に良いのではないかという考えもある。
しかし個人的には、それは極力受けない方が良いという考えの方が優勢。
苦しみ痛み、即ちダメージを受けてもよほどでない限りまあ再生されるわけだが、その再生の過程で何か有限なエネルギーを使ってしまうのかもしれない。
その残りが少なくなると弱っていってしまうのかもしれない。
ダメージはない方が良いというのは、なんとなくわかること。
だがダメージにならない程度の痛みもあるかもしれないため、微妙な感じになる。
筋肉なんかは、微々たる程度ではあるが痛みがなければ形成されないもの。
痛みがすぐ再生しなくなるほど度を越した状態というのは、即ち怪我である。
その状態になってしまうと、治す際にトータルでエネルギーを多く使用してしまう。(それは有限なものかもしれない)
即ち怪我をすることというのは、最大に良くないこと。
それをしないために大事なことは、危険なことをしないようにすること。単純。
周りの人は危険だと見ていても、能力などからして自分は平気だとわかっていること(自信のあること)なら、危険はないのでしても問題ない。
自分にとっての危険を把握する。その上で危険を伴うと思った運動は控える。
危険を犯した行動はしない。危険な場に飛び込んでいかない。
事故死も防げるので、そういう意味でもまた長生きする確率を上げられる。(これはあくまでは個人的な助言)
(思ってみると?これを書いていたのは2022.7/8 正午頃)殺人被害に遭う確率も下げられるか。
筆者はこの意識のおかげもあってか、人生の中で怪我をしたことも病気になったこともほとんどなし。
↓各痛みとそのダメージ量。

- 身体系 -
苦・痛み(体への負荷)ダメージ
切り傷(軽傷)※10.3
切り傷(中傷)※210
切り傷(重傷)※31095
刺し傷(軽傷)※40.4
刺し傷(中傷)※514
刺し傷(重傷)※61460
打撲7
捻挫7
骨折180
疲労感0.02
頭痛0.2
腹痛0.1
発熱(38度)5
発熱(39度)14
発熱(40度)90
手術(表面)60
手術(内臓)1460
手術(脳、心臓)2920
局所麻酔1
全身麻酔365
病気(軽度)14
大病365
体の不具合で意識消失(数分)30
体の不具合で意識消失(数時間)180
便秘感0.03
尿意耐久0.02
空腹感大0.02
満腹超過0.05
服薬0.2
服薬(脳に作用)7
陣痛90

あくまで個人的なイメージ。
1ダメージ=寿命1日減。
深刻な数字は赤字で表記。
基本、痛み、苦を感じているその時にダメージを追っている。(ダメージにより感じる感覚なので当然)
当然ながら、程度によってダメージ量は変わる。軽度重度などの記載がないものは普通程度の時のダメージと考えてください。
ノーダメージで人生を全うするのが理想。
しかし、それは無理な話。
※1 皮膚が浅く切れる ※2 皮膚が深めに切れる ※3 皮膚をナイフ等でぶち切る
※4 皮膚に浅く刺さる ※5 皮膚に深めに刺さる(注射も該当) ※6 皮膚にナイフ等が突き刺る



心に苦しみ(痛み)を与えない

苦しみが蓄積すると、多少の苦はものともしなくなる。
そういう意味では良い効果を得られる。
人生に苦はつきもの。
苦を蓄積させることも必要かもしれない。
それがない場合、突然大きな苦に苛まれたとしたらそれに対応できないことになってしまうだろう。
また体同様、心も再生不能、あるいはすぐに再生しなくなるほど度を越えてしまわない程度なら、
鍛えられたり免疫がついたりし、逆に良いのではないかという考えもある。
しかし心の場合、体以上にそうは考えにくい。
苦で心を(長持ちするほど)丈夫にできるか?微妙である。
個人的には、苦は極力受けない方が良いという考えの方が優勢。
苦は生きる気持ちも奪う。
命がダメージを受ける感覚があるのがわかるだろう。
苦がすぐに再生しなくなるほど度を越した状態というのは、病気とも言える。
病気は苦の化身。
即ちそれになるというのは、最大に良くないこと。
苦はおそらく皆すでにある程度蓄積されている。
そんなでもう蓄積を考える必要はあまりない。
あらゆる苦を感じないように心がける。苦に感じることは控える。楽を感じるようにする。
苦はその人自身の意識が生み出しているもの。
即ち意識だけで苦を感じないようにすることもできる。
そうはいっても、それを感じないようにすることは難しい。
たいてい皆、苦のほとんどは「人付き合い」の中にある。
それをやめれば良い。
やめれる方法は真面目に考えればいくらでもある。
自分の本質または病気が苦だという人は、できることを真面目に考えてそれをできるだけやっていれば良い。
ちょっとした失敗を重んじ、学習していくことも大事。
(これはあくまでは個人的な簡素な助言)
↓各痛みとそのダメージ量。

- 精神系 -
苦・痛み(体への負荷)ダメージ
残念0.02
がっかり0.02
心労0.02
不安0.02
0.03
不愉快0.03
怒る0.03
唖然0.03
憤慨1
絶望30
失恋14
親近者等と死別60

身体系よりはダメージが軽い。



大事な箇所を守る

体全体を守ることが大事だが、命の要となる箇所(脳・心臓等)は特に守る(ダメージを与えない)ように心がける。
何せ、↑の表の通り、要所が直接受けるダメージは大きい。
本当にそこらが要所かどうかはある意味定かでない。
しかし筆者は、まあ一般常識に基づいてそこらがそうだと信じている。



大事な能力を守る

能力も全般的に保持することが大事だが、要所(知力、視力、手足の機能等)は特に守るように、機能が落ちずいつまでも使えるように心がける。
主要な能力がだめになると、ここで挙げたポイントもそもそも実行できなくなってしまい兼ねない。
実行できいということは、即ち長寿も目指せない。



体の状態を人工的に操作しない

基本、自然体が最善。
生物は、神が認め生物として採用したもの。(そうでないとしてもそう思って良い)
そんなで、上手くできている。
人工的操作は不要で、自然体のままで成り立つようにできている。当然。
動物を見てもわかる。
体に「感覚」が備わっていることからもわかるはず。
しかし人間はいろいろな理論を提唱して凡人に広めたりでそんな当たり前なことを見失ってしまっている。
薬で人工的に体の機能を遮断するようなことをしたとする。
それが体に良いと思う?
体を狂わせてしまうようなこともありえる。
辛い感覚も、たいていは体にそれが必要だから感じている。
体を防衛するための感覚。
その時の体にとって、その感覚を感じていることが良いこと。
薬で人工的に感覚を抑えるようなことをしたとする。
体に良いと思う?
今体をどういう状態にしておくのが最善かわからず、自分で体に良くないことをし兼ねない。わかりますか?
「感覚」が自然と体を最善に導いてくれる。
基本、常にそうだと思って良い。
耐えるべき辛い感覚もある。
そこで耐えるのが体のため、生きるため。
また薬は本来、植物が生物に害を与え生物を退け身を守るためのもの。
生物に害を与える…即ち毒。
味覚(感覚)で毒だと感じられることは、誰でもはっきりとわかるはず。。
人はその感覚を理性で無視して無理に飲む。…変な生き物。
体に良くない。
ダメージを追って生きる力が弱まってしまう。
悪い効果と良い効果は隣り合わせなので、偶然良い効果が出ることがある。
そこが全面に出るようにしたものが薬として使用され広まっている。
…それが本来毒だということを忘れてはならない。
生きる力を弱めてでも感覚を操作したいという人は好きなだけ薬を取り込んで結構。
とても耐えることができないほどの辛い感覚は…そもそも耐えられないので当然、体のためにもなくすべき。
それは、その感覚を消すために薬を取り込んでも良いケース。
ただそういうケースに巡り遭ってしまうということは、体にとって非常に良くないことなので、まず巡り遭わないように意識する。
それを避けられるなら、避ける方向で行く。
無理そうでも、ぎりぎりまでなんとか避けられる方法を考えるべき。



身体を大きくしない

たまに聞くこと。
大きくなると、大きい分、身体は常に肉体全体を維持するために頑張る必要があり、負荷が増す。
負荷が増すと、体がその活動(自立した活動)を行う上で不利になる。(詳しくは⑨を参照)
体が活動しているから生きているわけで、それができなくなると即ち寿命。
「体の面積の大きさ=体が維持する箇所の多さ」。大きい建物ほど維持、管理、出費が大変なことと同じ。単純なこと。
大きさに合わせて臓器が拡張されるようなことがあれば良いが、そのようなことはない。
わりと筋が通っているので、(確証ないが)これは今のところ正論と見ている。
基本、大きさと重さは等しいので、重さで負荷の大きさを判断できる。
重さは、高さ(身長)と幅(太さ〈BMI〉)で決まる。
高さに関しては、低くなることはないので、残念ながら今より有利な値にすることはできない。
高くなること、即ち伸びを抑えるしかない。
それを抑えることが鍵。
しかしそのためにもろに栄養を摂らないようにするのは問題とみる。
極力横にならないようにする、跳ばないようにする、間接を伸ばさないようにするなど、伸びを抑える手はほかにもあるので、抑えるならそういったことに力を振り分けていくと良い。
「栄養が摂れた上で育たない」これが理想。
早く育ち終わるとその分短命かと思いきや、(育ち続けないために)大きくならないのでその逆。(女は早熟のケースが多いので有利ということになる)
伸びるのは人生の序盤のみ。
その序盤が過ぎると高さは固定される。
固定されるということは即ち、その人の負荷の程度(生きる上での有利さ)が定まるということ。
すでに定まっている人は当然、どうしようもない。
それに対し、幅は固定されない。されることはない。
なのでそこはいつまででもなんとかなる。
しかし「最低限の重さ」がある。
それは高さに基づいて決まる。
どう頑張っても、高さに基づいた最低限の重さ以下にはできない。
即ち高さがあるほど不利でしかない。
高さは生き続ける上で有利にできる限度を決めるもの。
そんなで極端な例でなければ、高さの方が大事と言える。
人生最高幅(体重)を更新すると、そこから幅を細めて(狭めて)も消えない細胞が残ってしまい最低限度が上がってしまうこともお忘れなく。
そんなで細めることができるとはいえ、実は場所によってできなくなることもあるため油断は禁物。
加齢により若干背(高さ)が縮むことがあるが、それは背骨の隙間が狭まっただけであり、血管の長さ、細胞の数なんかに変化はない。体の密度が増しただけ。
即ち、そうなれば有利な体になるというわけではないと思われるので注意。
小さければ身体に負荷がからない上、体に取り入れるべきものもその分少なくて済む。
即ち食費もかからず、エコ。
このメリットも大きい。
排出すべきものも少なくて済む。手間がかからない。
高さが1cm伸びると重さが約1kg分増すので、1kg分身体の負荷は増すとみれる。
幅の伸びによる1kg増加と大きな差はない。
高さはすでに固定されているか、(メリットを差し置いて)それを抑えることに抵抗がある人が9割以上だろう。。
ただ、幅を抑えることはできる上、それに抵抗がある人は固定観念により(特定のスポーツ選手を除き)確実と言っていいほどいない。
ここで言うところの「限度」は、高さに基づく物理的に可能な限度までいってもいいのかもしれない。
しかしながら、その限度までいかせることはできない。
何せ、生きるには身体に栄養(エネルギー)を取り込む必要があり、それにより重さが増す。
栄養を空にしたらそこに命はない。
そのため、今の世界では物理的に可能な限度+10kgくらいが実質、限度になる。
限度にすれば良いのかというと、そうでもない。
何せそこまでにもすると普通、空腹(苦)を無視する必要もでてきてしまう。良くない。(詳しくは⑨を参照)



感覚・要求に基づく

苦(嫌気)を感じることはしない、楽(喜び)を感じることはする。
苦=やらない要求、楽=やる要求。
当然すぎるほど当然なこと。
しかし、いろいろなことが形式化された中で生きる人間には、それがはっきりとわからない。
思考した挙げ句、そんなおかしなことになった。
感覚、それに基づく自然要求は体(命〈寿命〉)を守るために体が発信するもの。
感覚・要求通りにすれば体は守られる。
基本はそれに任せると良い。
辛いこと大変なこと無理なこと嫌なこと…ひっくるめて苦しいことは極力しない。
守りの適用外へいき、命がダメージを受ける。
苦を感じたら極力やめる。
無理なことはせず、普通に(自然に)していてそれなら、それがその人の適正、最善。
「並み」に合わせる必要はない。
適正、最善は人によって違う。
並みはあくまで人の平均だということを忘れない。
体が何かを必要としていたら、そのことを感覚(苦)で知らせてくる。
不要でも同様に知らせてくる。
そしてかってに感覚通りに動くことになる。
「今日の値はどれくらいだから(何も感じていないが)強制的にどうしないとだめ」「この期間に必ず(無理にでも)体をどれだけどうしないとだめ」だとか人は言いがち。
感覚など関係なしでどうしないといけないだとか、そういうことは基本的にはない。考える必要はない。
人間は形式に基づきすぎ。
体のために苦を伴ってまでして何かしようとしたりする。
それが体のためと考えるのは基本、おかしい。
感覚が苦を感じていなければ良い、感じていればだめ。
人間はそんなこともわからない。
動物なら当然のようにわかること。
そういう意味では動物以下。
感覚・要求を無視して苦しまない、無理をしない、頑張らない。それに基づく。
基づかない最もな悪例は力士。
感覚を無視した暴食により体は守られず、命を削っている。また⑧の意味でも(こういってはあれだが)最悪中の最悪と言える。
大食いは何の得もない。
何せ体に悪い、苦しい、食費食う、買い物に手間かかる、資源の無駄、命の無駄、容姿が悪くなる。
メリットはというと、なし。
即ち馬鹿げているだけ。
体が求めている時は多い量を摂取しても楽。
求めていないとすぐに苦しくなる。
空腹なら必要、満腹なら不要。動物でもわかること。。
満腹(不要)で摂取を続けて体に良いことはまずない。何せ不要。苦を通して余分に摂取していると感じられる。
基本、感覚に基づいて普通にしていてそれなら、それがその人の現状の最善の体型。
太めだと人一倍食わないようにしないといけないだとか、細めだと人一倍食うようにしないといけないだとか、そう考えるのはおかしい。
人間はおかしくなっている。
明らかに肥満とされる人は、味覚による快感が満腹による苦を上回り、感覚を無視してしまう、おかしな人。…ではないかと考えられる。
普通に感覚に基づいていれば、何を食べようとたいして太ることはない。
何せカロリーの高いものは少量でも腹が満たされやすい。
なんでもある程度適量でストッパーがかかる。
人間の作った形式や人間の思考・意識なんかとは違い、「感覚」は間違えない。嘘もつかない。
あるものを全部平らげないといけないと思い詰め、それで感覚を無視し無理に食す人も多い。
良くない。デメリット過多。
今食さないといけないということはない。
何せ現在の人は皆が皆、冷蔵庫、冷凍庫、電子レンジを持っている。それを持っている。
食料の保存、再生はこれでもかというほど容易。
馬鹿げたこだわりはいらない。
1日の食べる回数、時間、量を守ることで感覚を無視し、無理をしたりするのも(人間特有の)馬鹿げたこだわりに部類される。
感覚に基づかないことも、上手くやれば多少何かある場合もあるから、広まっている。
といってもそれはせいぜい「いらないが添えると少し良い感じになる飾り」程度のもの。
ちなみに筆者は永遠と暴飲暴食を派手に強要され続けている。



代謝が活発にならないようにする

ずっと使っているものより、たまにしか使わないものの方が綺麗で劣化が少ない。
それと同じで、代謝(体の活動)が活発でない方が体が劣化しにくく、寿命は長いとみる。
代謝の度合いは、体の大きさに比例する。
即ち⑧と結び付く。
大きいとその分、体に取り込むべきものも排出すべきものも多い(代謝大)、小さいとその逆でエコ(代謝小)。
⑧で言うところの「負荷」は代謝によるものとも言える。
無理に代謝を落とそうとすると、空腹の感覚が出る。
⑨で述べた通り、そういった感覚を無視することはいけないので、それはだめ。
即ち、⑧の「体を大きくしない」を守るしかない。
体のわりに空腹を感じにくい人もいる。
そういう人は(体のわりに)代謝が少なくても問題ない身体であるということ。
即ち長く生きる上で有利。
体を小さくすることはできないが、もしかすると修行によりこの身体にしていくことはできるかもしれない。
そんなで自然な代謝を抑えることは難しいが、意思で動くことにより促進される代謝なら容易に抑えられる。(何せ意思で抑えられる)
意思で動かせる部位を動かすことでも(自立した体の活動の際と同様)エネルギーを消費し、代謝が促進される。
激しく動かすと、その間(短時間で)多くのエネルギーが消費され、代謝が活発化する。
そのことは、呼吸、心拍が早まり、早く空腹感が出ることからしてよくわかる。
即ち体の劣化が早まる。
エネルギーを消費しないためには、動かないこと、興奮しないこと、眠ること。
単純だがこれに尽きる。
あまりに動かないと、どこか苦を感じる。即ち適度に動いた方が良いことがわかる。
動くことで得られる身体へのメリットもあり、それとの兼ね合いが大事。



人間が提唱し社会に広めた専門的なことを実践する

凡人らがすること。
皆することは、これだけ。
それが「普通」となっている。
まあそうするのもある程度は良いと見て良い。
学歴のある、貴方が優秀と見る、人間が、社会で、立派に、提唱したと、されることw
ただし、それが良いということは幻想、思い込みだというケース、もし効果を感じてもプラシーボ効果だというケースも多いということを理解する。
それも忘れてはならないこと。
社会で一般化していることなんかは何気なくばりばり格が高いと認識するので絶対と信じ洗脳され、効果を感じなくても永遠と信じてやまないのが今の人間。
太ると言われるものを食べ、それを食べたことにより太ったと明確に言える体験はある?
骨が強くなると社会で言われるものを食べ、それにより強くなったと明確に言える体験はある?
調子が良くなる運動をし、それにより良くなったと明確に言える体験はある?
そういうことが明確に感じられることはほとんどない。
薬、毒のような過激なものなら効果を明確に感じられる。
一方普通の食べ物に関しては、そうそう食べて効果は感じられない。
なのに誰しもが体に起こる効果を信じている。
食べる上で毎日、常にそれを信じて意識して食べている。
不思議なことだ。
皆社会、常識に洗脳されているわけだが、その洗脳を解くことを意識しても良いと思う。



高齢になったら衰えるきっかけを作らないように注意する

最後に、高齢になり身体が脆く弱くなって再生力が落ちた時の話。
脆く弱いので、少しのことで衰えてしまう。
一度衰えたら、再生力が弱いので元には戻せないことが幾度。
で一ヶ所どこか衰えると、それに伴いできなくなりやらないことが増え芋づる式(連続的)に一気にあちこち衰えていってしまうケースがある。
終いには生命維持に関わる器官まで衰え最期を迎える。
だから、衰えないように意識していることが大事になる。
もしも一ヶ所衰えてしまったら、芋づる式な衰えを起こさないように要注意する。
衰えを起こすきっかけのスイッチを入れてはならない。
即ち崩れるきっかけを作らない。
それこそが厳重注意すべきこと。
毎日同じように安定して過ごせていて、何もなければ何事もない。
きっかけを作ってしまうことは非常にもったいない。
何がそのきっかけのスイッチかは人それぞれ若干違う。
メンタル的なことも影響する。
気力をなくすようなことをするのは相当危険。
自身の考えを見つめ、スイッチを把握しておくことも大事。
知らず知らず、継続が力になっていることは多い。
毎日同じようにしていることは、ずっと同じようにする。
即ち継続していることは、1度でもやめてしまったらアウトだと思っていく。
継続していたことをやめるという行為は怖いもの。
よく入院したら歩けなくなったというような話があるが、たいていは病気や怪我が根本的な原因ではない。
入院中休んでいたから、歩くことをやめていたから。
歩けなくなったりなどしたら、一気にできないことが増え健康的なこともできず芋づる式な崩れを起こしやすい。
日々の継続をやめ、安定状態を乱さない。
あらゆることにおいてそう。
芋づる式な崩れ(急激な衰え)を起こし、命を脅かす事態になり兼ねない。
難しくなってしまったことがあっても、極力、以前の形ををあからさまに絶たない。
以前と全く同じようにはできなくても良い。
最悪、真似事のような感じでも良い。やめたら危険だから。
このように、高齢になったら特に、生きるためにはそのための「注意」が重要視される。
将来、老いたら筆者はこの実践をする。
これにより、どれだけ体を長持ちさせることができるか?
…そんなに老いる感覚は今のところ全くないのが現実。
そもそもこれを実践するほどの貧弱な体になる未来があるとは、とても思えない。。
自分が高齢者でなくても、高齢者と接する上で意識したいことでもあるので、長々と書いてしまったが読んで損はなかったはず。



どう認識するかは閲覧者しだい。
参考までに。
筆者は物心ついた時点から常に↑こういったことを意識してきた…わけであるが、「意識で意識していた」というだけだ。
儚くもほぼ実践することはできなかった。。。
それが筆者の「「人生における最大の屈辱」」である。
人に強制的にコントロールされてしまい、意思を通すことが許されなかったがために、この様。
この心の傷が癒えることはないだろう。
ただ、①だけは実践できていた。
マインドコントロールまではさせられない。
肉体的なコントロールは防げなくても、頭を壊されたりでもしない限りマインドコントロールされることは防げる。
もし筆者が不老不死に近いとしたら(いまだほんの少しも老いを感じたことがない)、これを実践できていたからと見ることもできる。




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