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子育て講座 | 最善の子育て法について | 育児学 | 育児考察
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・最善の子育て法とはどんなか?その答えを示す。
大人になると、親になる。
親(保護者)になるその前に、これを確立させておきたい。
その上で最善の子育てがしたい。
筆者は子供時代から長年そう思ってきた。
何せやり直しは効かない。
しっかり考えておいた上で、悔いのないようにやりたいもの。
ですでにいろいろと考えを持っていたが、それを書き記すことで、初めて「れっきとしてそれを確立」した。
この講座は個人的にも、良い内容。
苦しい想いをしてきたからこそ、どうするべきなのかがよくわかる。
↓「子育てをする上での11のポイント」を1つずつ、挙げていく。
① 「子供=自分の唯一無二の特別な人」のような認識を強く持たない
その認識を持っていると、どうしても子を私物化してどうしろこうしろと思いのままに操ろうとするだろうし、余計なことをする。
見下して(=馬鹿にして)命令し自分の思い通りにさせようとし本人の思い通りにはさせないようにする。
↓で述べる良くないことばかり。
この社会では「私物化」というのは、「良くないこと」という常識が浸透しているので、
私物化していても、どうにか理由付けして「それは私物化とは違う」と、思い込んでいる場合が多い。
人は自分を正当化し見栄を張る。
厄介だ。
子供は人。当然。
人を操れるわけがない。
なぜって、意思を持つ者、知力を持つ即ち考えを持つ者だから。
思い通りに動かせない(操れない)ことでその相手を貶すようなことをしていたら酷い。
それで逆に憎しみを抱くようなことも多い。
動かそうとする自分自身が問題。
皆家族を憎みやすい気質を持っているが、その気質はいらない。
皆1人の人間。
他人をそれなりにそう見るのと同じ。
親族だろうと、皆別。
だからどんな人どうしも確実に対立することがあるわけ。
有性生殖で産み出した子は皆、“親と同じ”ではない。クローンとは違う。
同じにはならず多様性がある。だから生き残れている。
能力が違えば夢も考えも違う。
自分のために産まれた存在でもない。
世界に数十億人いる「人」のうちの1人の「人」。
誰だろうと、その人はその人なりの人生を歩むようにしていればいい。
② 理解があるとものと思い込まない
親は子のことを理解しているものだと思い込みがち。
挙げ句には本人よりもわかると思い込む。
親だろうと、毎日見ていようと、共に生活していようと知らないことはいくらでもある。
そのことを視野に入れる。
逆に身近な人だからこそわかっていないこともある。
毎日見ていようが、話さなければわからない。話していないことはわからない。
「話していないこと」は必ずある。見ていないことも必ずある。
心を見ることはできない。だからわからない。
なんとなくわかる。心が通じるだとかない。
それが現実。
理由抜きにわかる的な認識を持つのは酷い考え。
自分の見ているその人の姿だけがその人ではない。
自分の知らない一面もある。
子に関しては意外にも特にそれがあったりする。
にも関わらず、親とあらば子に関しては何でも知ってると思い込みがち。
それが本当にだめなこと。
皆、家族に見せる一面は、家族だけに限った話。
家族はそれをわかっていなかったりもする。
家族の前と他人の前とでは違う。誰しもがそう。
そうでなければ家族ではない。
人が変わったように見えることもある。
わかるでしょう?貴方にも家族がいるのだから。
いろいろわかっていると決めつけない。
決めつけた感じで言わない。
聞いた人は真に受ける。
間違えていても真に受け、誤解の輪を広げていく。
理解がない場合、それを自覚しないとなかなか理解に至ることもない。
自分が理解していないことを視野に入れ、「理解していないことがある」と認識、自覚することが、理解に繋がる。
理解がないと、その人に対し適切なことができず、その人を苦しめる。
苦しめていることも理解せず、永遠と人を苦しめ続ける。
それによりその報いを受けてもなぜだか理解できない悪循環に陥る。
何も良いことはない。
理解があれば、それに越したことはない。
人と関わる上での基本は、「理解」すること。
それができていなかったら、何にもならない。
それができていないかったら関わるべきではない。
全ての土台。即ち重要。
決めつける感じにせず「理解がないかもしれない」、どんなことも「違うかもしれない」と曖昧に認識しておくだけでも(良い意味で)違う。
それを覚えておきたい。
③ 無駄に心配しない
無駄な心配をする。それも親にありきたりな良くないこと。
人は「心配する=良いこと」と絶対的に思っていたりするが、その考えは改める。
それが“良いこと”だという考えを持っていなければそんなに心配はない。
心配される側からしたら、それにより迷惑することが大半。
即ち一概に良いこととは言えない。
子であろうと完全には理解していない、その上皆決まって「過度」に心配心を持つため、子の場合は特に無駄に心配をしがち。
その心配が正しいものではないことも多い。
そういうもの。
そして子の行動を妨げる。
無駄に心配心を持っていると、無駄に行動を妨げる。
そうされると、良くないことしかない。当然。
人生を狂わすほどの大きな妨げもし兼ねない。
子のことを知れば、知るほどに「無駄な心配」は減る。
だが心を読む超能力でもない限り“完全にそれをなくす”ことはできない。
その人のことを思っているなら、心配心を持たないようにすることも大事。
当然ながら、愛により多少持つことは悪くない。
いきすぎると悪い、間違いだと悪い、無駄な心配は悪いんだということを視野に入れる。
「心配=地雷」。これも視野に入れる。
あと、「愛には要注意」。
心配←ある意味本当にアレ。
このような言葉は発したくもない。
親の心配というものを昔から重々わかっているからこそ、筆者はそう思う。
わかっていないからではない。
④ 「自分のため」を「子のため」と間違えない 
そう間違えている人は本当多い。
自分のためなのに、子のためだと思い込む。
そのことに気付いていない。
それだと、そう間違えている上で子にどうこうするわけだ。
自分のため。子にとって良いことはないケースが幾度だろう。
だが子を嫌がらせていても、苦しませていても、迷惑していても、そういう人はそのことを悪と見なさない。
だから、そう間違えている。
子の方がおかしい、何かの間違いでそんなわけないなどと見なしている。だから自分は善。
…子のことを想っているとは言い難い。
想っている自覚を持っているようだが、その気持ちは偽物。
気付いていないが偽物の愛。
何でも迷惑がられたりしたらアウト。
それでも自分の感じていること思っていることしていることは良いことだからそうは思わない?
そう思うならそれはおかしい認識。
何せ迷惑なのだから良くない。
良いとしたら、その本人ではなく自分自身にとって良いだけ。
良くない人。
冷静に考えてみてください。そうでしょう?
自分のため。
子に限った話とも言い切れない。
この間違いをしないように意識する。
今現在していないかも意識する。
案外よくあることなので、本気で意識する。
⑤ 余計なこと、嫌なことをしない
どうしても親というのは、子を「育てる」という気持ちが強い上、上から目線なため(=見下すため)、知らず知らずそういうことをしがち。
①②③④⑥が特にこれに繋がる。
子に対し、子が望んでいないこと、嫌なこと(即ち余計なこと)をしても結果的に誰にも何もメリットはない。
嫌なのは、「その人にとっては何も良くない」から。
なぜ嫌なのか知る。
そのなぜなのかは何気なく予想して知らず知らずかって決め付けていがちだがそれはいけない。
望んでいないことは望んでいない。
そういうことをしても、その人は嫌なだけ。それ以外に何もない。
そもそも子に対して何かする時は、本当にする必要があるかどうかしっかりと見極めるようにする。
たぶんこうだろうから、こうしてほしいああしてほしい、だからこうしろああしろなどと指示するのも非常に良くないものと思う。
毎日見ていようが、人には人のことはわからない。
それが適切とは限らない。
自ら選んだこと決めたことなら基本、間違いない。
何せ自分を最もよく知るのは自分自身。
即ち自分に対し、最も適切なことができるのは自分自身。
もし余計なこと、嫌なことをしてしまったら、それを「自覚」し反省する。
おかしい、だめ、良くないのはそちらの方だ!と第一に子を疑う精神を持つのはいけない。
自分を疑わなければ永遠と高みへは進めない。
人を嫌がらせてしまう素質も変わらない。
⑥ 自分の思いのままにどうこうさせようとしない、好きなようにさせる
本人の意思を押しきり、思いのままにどうこうさせ、その人が幸福なわけがない。
嫌だと思うことをさせ、本人が良いはずない。
押しきる理由は、「わかっていないからだ」「そうではなくそうした方が絶対本人は幸福だ」とか思うからだろう。
人を馬鹿にした酷い考え。そう見れる。
「わかっていない馬鹿だから、言いなりにならない」とは限らない。そんなだという可能性はあまりない。
「嫌な理由」があるから、嫌なわけだ。
自分の思考回路にない嫌な理由、その人なりの嫌な理由がある。
「わかってはいる、それでも嫌な理由がある」と認識しておくのが適切。
理由を聞けばそれなりにわかる。
もしわからず、共感できないとしても、「嫌だ」ということを理解する。人は違う。
その人はそれでいい。
「自分の考えを伝えても気変わりすることがない」ようであれば、尚更。
それがその人にとっての最善。
「絶対」はない。
絶対だとか言う人は、自分自身の考えしか見えない良くない人。
視野の狭い知識の薄い人。
特に人のことに関しては、誰だとしてもいろいろ明確にはわからないはず。
お前にとって絶対良いからこうしろなどと命じるのはおかしい。
また意思に沿わないことを押し通すのなら、進んでやろうとしないのなら、不幸などころかやらせる価値がない。
熱心に取り組む気力はないわけ。身に付かない。
ずっとやらされるわけでもない。何でも最後は自発的にやる。
自発的にはやらないようなことをやらせてもしかたがない。
言いなりにならないのは良いこと。悪いことではない。
自分の考えを持っているわけ。
即ち頼もしい。大人。
逆にそれはあからさまに馬鹿だ問題だなどと認識する人がいるから酷い。
自分の願望通りにできないことを嘆いて攻撃しているだけ。
そんな自覚がなくても、それと同じ。
ただ自覚がないだけ。
知力のある人間の場合は特に、考えを持っているのだから、自由にさせて問題ない。
自分とは違う。その人にとってはそれが良い。だからそれで良い。
もしも良くないことをしていたら、それなりに良くないことがある。
だめなら、だめなりのことがある。
そして自ら良くないこと、だめなことに気づき納得する。
自分で気づくことにより、本当の意味で身になる。
良くないこと、だめなことが何も起きないなら、それでいいということ。
だから、基本それはいけない、こうしろああしろと強く強制しなくていい。
必要なことは必要だから、基本最終的には自ら覚えて大人になる。
そういうことも視野に入れておく。
基本、押し通したりでこちらの思いのままにさせたりしない即ち好きなようにさせるのが最善。
最初からそうさせるつもりでいる。
思いのままにさせ続ける(操り続ける)と、「自分が苦労して作り上げた自分の子だ」という認識即ち私物化が強くなり、
好きにさせる(自由にさせる〈自立させる〉)ことを強く躊躇うようになってしまう。
させるも何もない。特に手を出さなければ相手は好きにする。
何せ「自発的な行動=好きなこと」。
その人を最も知るのはその人自身なわけだ。
その人にとってそれが最善だということ。
基本、自発的な行動、好きな行動こそがその人にとって最善の行動。
行動に対して否定的なことを言ってはいけないわけではない。
自分の考えを押し付けてその人の行動を妨げなければ良い。
助言の形、あるいは相手の意向などを確認する形で言う。
手を出しても問題ないのは、その人がそれを望んでいる、必要としている場合だけ。
基本、何も言っていなければ何も望んでいない。
どうだろうこうだろうと思い込んでどうこうしない。
しつこいかもしれないが、最後にもう1度要点を書いておく。
その人を最も知るのはどうあれその人自身。即ち基本その人自身の行動がその人にとって最も望ましい行動。
⑦ 自分の良いと思うことを教えてみる
早いうちに自分の良いと思うこと(知識)を、教える目的で見せてみる。(早すぎるとわからないのでだめ)
好きでもないことは無理に身をもってやらせてみなくてもいい。
見るだけでもわかるもの。
共感したり興味を引いたりし、言う通りにすることが良いと思われることを少し期待する。
反応なしか否定されるならそれでいい。それはそれでいいということ。
強制はなしい。
強制したりでもしたら、⑥を守らないことになる。
興味を持っても持たなくても、認められてもられなくても、どちらでもいい。
当然こちらとしては興味を持ってくれたりすると良いが、そうでなくても構わない。ほぼ期待は持たない。
人はいろいろ違うわけだ。その人しだい。
「自分の良いこと」と「人の良いこと」は違う。
「自分の良くないこと」と「人の良くないこと」も違う。
自分が良くないだめなことは人がしてもだめと止めてくるような行為は、謎だし、人にとってその人は、人を邪魔する敵でしかない。
その人の考えでそれでいいなら、それでいい。
何でもそれでいいという考え方もある。その人の考えはそれ。
だからいい。
好きなようにさせる。
相手の好き嫌いに任せる。
教えなかったら、後々互いに後悔し兼ねない。
もし「好き」の方であったとしたら、そうなることが目に見えるでしょう。
そのようなことがないように、これも意識しておきたいところ。
大事なのは、興味があるかないか、好きか嫌いか。そこのところどうなのか。それを知ること。
その時はあれでも、成長途上である限り、いつか興味を引く時があるかもしれないということも忘れずに。
否定か肯定されるなどはっきりした反応が得られないか、よくわからないようなら、はっきりするまで一応諦めず経過観察。
知識がある程度まで濃くなると、そこでほぼ終わり。そのこともまた忘れずに。
⑧ 将来を考えさせる
「どうこうさせるつもりはない、道を開くのは自分自身だ」とそのことを予め伝えておく。
大人になったらどうあれその時点で家族ではなく、準家族。
時が来たら道を開いて自分なりに生きる。
⑥などで散々言ってきたように、好きなようにできるのがその人にとって1番なわけだ。
子の将来に関しては基本、こちらは特にどうこうさせようとしない。
どうこうしてほしいなどと願望を押し付けるのは…いたたまれない。
知らず知らず押し付けていることもあるため、注意しないといけない。
自分で道を開くのが誰にとっても1番。
本人も周りの人も、それをわかっていないと苦しむ人生になりがち。
“最初から”それをわかっている(わからせている)と、特に良い。
一応(⑦の感覚で)こちらの将来に対する考えや、アドバイスは伝える。
受け入れられないならそれで良い。
自分の考えがあるということ。
それは逞しいこと。問題ない。
皆直に大人になるから。理想の大人を目指して生きる。
後悔ないようにしないといけない。
伝えておきたい。
⑨ 普通の経験をさせる
「普通のこと」一式を経験させる。
そうしないと、その国の人間達と同じ存在になれなくなる。即ち仲間外れになる。
そのため、これが重要と言える。
まあ意識しなくとも、人は誰しも子を普通にさせるもの(何せそれが「普通」)。
即ちこれは誰しもが実行する。
ただ、それは凡人の道へ行くことを後押しする形でもる。
即ち、良いことだと言い切ることはできない。
どうするかは親や当人の考えしだい。
筆者は大人になるまで常に自分で「普通を経験」しようとしてきた。
即ち自らこれを実行してきた。(「心では」の話だが)
一応それもあって基本、常識は知るが、さほど強く意気込んでそうしていなくても別に良かったかという感じ。(「親がいなければ」の話だが)
参考までに。
⑩ 思い出を作らせる
“子供のころ”の経験(思い出)は、格別。
この格別な経験は大人になったら2度と新規追加できない。
「子供」に戻ることはできないのだから当然。
そんなで、「そのころに経験させるといいこと」を多く経験させることを意識しておきたい。
「そのころ」というのはいつまでかというと、明確には言えないが、せいぜい児童期まで。
幼児期が終わると同時に1区切りつくものと見て良い。
人にもよるが、特に大事なのはだいたいそこまで。
2区切り目が児童期の終わりかという感じ。
とにかく年齢が低ければいいかというと、当然、そうではない。
何せ子供すぎても記憶に残らないので、あまり意味がないわけだ。
ではいつからが適齢期かというと、物心ついたその時から。
とはいっても、その時が具体的にいつかは明確にわからない。
だいたい、人並みに会話ができるようになった時が、その時。
会話ができるくらいになったなら、見た目からして脳が発達し(長期的な)記憶能力がついたとわかる。
即ち記憶能力の有無は、言動を見ればある程度わかる。
だいたいその時が来る平均時期は、生後3年になるころ。
あくまで平均。人により多少異なる。
「物心ついたころ=人並みに会話ができるようになったころ」「3歳」「人により多少異なる」この3つがキーワード。
「いつから、いつまで」それを見極め把握することが肝。
「物心ついた時」が、その人にとってはその人の始まり。
記憶の始まりでもある。
(一般的に全く気にされていないが)人生有数の重要なタイミングになる。
物心つくことというのは、祝賀してもいいくらいめでたいこと。
親にとっては、産まれた時…いや妊娠した時からその人との歩みは始まっているが、子からしてみるとそうではない。
物心つく時というのは(その人にとっての)誕生時。
傍から見たらわからないが、実はそこで初めて誕生を迎えている。
そのことも認識しておくべき。かなり重要なこと。
また⑩の「普通のこと」というのもこのポイント(思い出を作らせる)において1つの鍵。
普通のことを経験した思い出があるのとないのとでは、人間としてずいぶん違う。
経験させておきたいとも思う。
それを経験させる「時期」があることも忘れてはならない。
経験の内容も大事だが、「いつの経験か」も大事。
普通のことを経験させる時は、「普通に経験する年齢」で経験させるということを意識しているようにする。
そうでないと普通にならないケースもある。
筆者のこのコンテンツ⇒過去の記憶を見れば、この「思い出を作らせる」の大事さが重々わかるだろう。
その大事さを形にしたようなコンテンツ。…わからない?
読者らが万が一「わかる」の方であったとしたら後悔するので言っておいた。
これを実行するということは、大人なのであれだがある程度「自分自身の良き思い出」にもなるということも覚えておきたい。
子との時間は心に響くもの。
子の格別の経験の中の柱にもなる。
思い出を共有することも大事。
自分があれでは相手に響かない。
気持ちは移るから、子に移すために自分が子に体感してほしい気持ちを作る。子のような気持ちになる。
絶対に嫌な気持ちではいけない。
ちなみにだが、「物心つく以前」の経験も、別の意味で相当大事。
何せ物心つく時に至るまでの経験が、その人の人格を作り出す。
物心つくとその時点でその人の基礎はできあがる。
いくら成長しようが、そこから人格が変わることはほぼない。
そればっかりは変わらない。
変わったように見える人もいるが、それは傍から見て表面上変わったかのように見えるだけ。
変わる前から、本来の姿(心)は今と同じだったということで間違いないだろう。
「人格(即ちその人)を作る」という意味で大事。
物心ついた後のそれとは大きく異なるもの。
それ以前の経験には「思い出を作らせる」という意味合いはない。
その以前と以後の経験、どちらも大事なものであるが、「大事」の意味合いが異なる。
はっきりと区別させておきたいところ。
とここまで言ってからこう言うのも難だが、本当に人格を作るかどうかは定かでない。
自分自身もそうだが、基本誰しもそのころの記憶はないので、断定しては言えない。言う資格はない。
だがとりあえず信じ、人格を意識して育児していくことを勧める。
⑪ 大人になったら、大人(基本自分と同じ立ち位置の存在)として対等に見る
大人になった時の話。
親は子をいつまでも「自分の子供=子供(未熟で低い水準の人間)」とみがち。即ち対等に見ない。
それだと上から目線で擁護しようとしたりどうこうする。
良くない。
大人になったら大人。自分と同じ立ち位置の存在。
大人は人の手など必要としない。即ち大人にどうこうする必要はない。
馬鹿にするだけ。
無駄な行為。
もし力を必要としているならまだ良いが、だとしても特に手を出さなくていい。
大人は自らの意思でかってにやりくりするものだから。
子供は子供に見えて気づかないことが多いように見受けられるが、高校生にもなれば親の知識を上回ることがザラ。
それでも見下す(馬鹿にする)のはおかしい。
おかしいことをして良いことなど何もない。
年齢が上だからと知識も何も上のはずだと信じ込んだり、威張っていいもの支配していいものだと思いそうしていたりするのもいけない。
それが親にありきたりなことだから酷い。
子供の時から見ていると、どうしてもその時の目線で見るため馬鹿にする。
馬鹿になどしていないと言い張るだろうが、そう言い張れる言葉を全面に出したがっているだけだ。
馬鹿にしていると言い換えられる。
それで皆自分には教える役割あるだとか思う。
すでに親を上回っていたとしてもなんでもずっとだ。
親気取り。
それが一般的に良くないことだとはさほど思われていない。
馬鹿にするその人にも全く同じように未熟な子供時代があったわけ。
冷静に考えてみてほしい。
…これも正しくない認識。
どんなに甘く見ても成人したら間違いなく大人。
大人になった時点で、「大人」だということを理解し、子育てには終止符を打つ。
その後は無視でいい。むしろそれがいい。
(ある程度成長すればわかると思うが)だいたい誰にとってもそう。
そうするということ、そこで終わりだということを予め視野に入れておく。
子にもそのつもりにさせておく。
何もしなければ間違いない。何だろうと、何かしたら人を苦しめる危険性がある。
親を20年もやったら自分自身、十分すぎるほど満足していいし、役目は果たしている。
それを自覚してそれ相応にする。
子育てする上では、これらの点を踏まえておくと良い。
「それは良くないだろう」と思ったことなど、ありましたか?
人はそれぞれ違うので、そういうことを絶対的になくすことは不可能。
これはあくまで個人的な指針。
…こう考える筆者が親になったらどうだろう?
貴方はどう思う?
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