◆ 学習講座 ◆

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学習講座最善の学習法について学習学学習考察

価値的で良い最善の学習法を示す。



この社会における学習について

この世界(惑星)では、どの国でも基本、生まれた人間は総じて、強制的に人間が考案し作った世界「社会」にて生かされ、
強制的に「学校」という場で学習させられた後、労働させられる。
労働に参加するのに抵抗がある者は愚かな人間(人間のクズ)とされる。そして通常の人間扱いされない。
ここでピックアップするのは、その労働の前の学習。
学校で学習させられる期間はどの国でも約20年ほど。
この国では基本19年。長ければ24年以上。
その期間、人間は学習一筋で生きる。
学習期間というのは言わば人生の下準備の期間。
長い間下準備をしているだけで、何もしていない状態。子供と見られ馬鹿にされる状態。
あまりにも長い。
ほかのたいていの生き物は寿命を迎え逝ってしまうころに人間はようやく人生の下準備を終える。
まだその段階。
馬鹿らしい生き物。
まず、学習期間をそれだけ長くとることが馬鹿らしい。
そうすることは人間にとってさほど重要なことではなく、無駄も多いからまた馬鹿らしい。
学校は無駄が多い。
通学に要する時間も、1年で20年でどれだけの時間になると思う?計算してみると恐ろしい。
また集団で行動することにより、いろいろなことを周りの人達と合わせることを要し、
待ち時間、配慮に要する時間、人付き合いにより消費される時間などがある。
その時間も1年で20年でどれだけの時間になると思う?計算してみると恐ろしい。
学習の内容も、そのほとんどが「特定の分野を極めるごく一握りの人」しか必要としないもの。
日常生活で必要とするようなものでもない。
学校で学ぶ内容で、本当に重要なものというのは、「文字」くらい。
役立つことというのは本当にそれくらい。
あとのことは9割あまりにも役立たず、皆そのうち忘れてしまう。
本当馬鹿らしい。
余計なことを学ばせすぎ。
自分自身が必要なことを選んで自由に学ぶ形なら価値的だが、学校はそうではない。

そんな学校のために(学ぶ本人のほか)職員を始めとした大勢の関係者が尽力しているというのがまたなんともいえない。
そこに全力で時間及び労力を費やしている人間達…見るに堪えない。
以上のことから学校は無駄が多く、価値的でない。
特に小学校の教育内容は一部を除きそのほとんどが、ごく一握りの人を含めても非常に必要性が薄い。
(かといってもっと上の学校は価値が高いかといったら、専門的になりすぎてそうでもない)
このようなことに多大な時間を費やすというのはあれ。
こういう社会である必要性はない。
社会に洗脳されていて、わかっている人はほぼいないが、勉強を学校でやるというのは価値的でない。
学校の授業内容というのは、「単独」でやろうとすれば通常なら5年かけてやるものを1年足らずで把握できる。
学校で集団ででなく1人でやるなら、無駄なことが何もない。時間を問わない自由もある。
行って帰ってくるまでの時間の大半以上が「通学時間」「待ち時間」「人と付き合う時間」。
それらがなしなら、どれだけ早く大人に近づけるかわかりますね?
学校行かなければ、なし。

学校で学校らしく勉強することは価値的でないが、そうしたいならしたい人だけしていればいい。
何を言っているんだと思うだろうが、皆洗脳されているだけ。
皆、勉強=学校と洗脳されている。
それが一般化し、何より義務化したことにより、そうなった。
誰しもが「勉強=学校」は正しいと信じてやまない。
何せ社会は正しいと信じないといけないものだと思っている。
即ち皆「教師から(人から)教わる」ということをしないと知識を身に付けることはできないものだと思い込んでいる。
これが皆が思っている酷い間違い。 で「独学=凄い」と誰しもが思っているが、むしろそちらの方が凄くない。独学=単独。
無駄なく短時間で(即ち軽々と)把握できるわけだ。
学校は勉強に適している場ではない。
即ち、そこで勉強をすることは価値的でない。
内容に価値がない上、それ。
なら何の価値もないだろう、とそう思うことだろう。
一般的に「学校=勉強」。詳しく言うと、「学校=勉強=授業内容=重要」と認識されていますから。
「勉強」が浮き彫りになっている。
「勉強」なくして価値なしと見る。
学校で行うその勉強が役に立たないと感じたことはさすがに皆あると思う。よく考えてみてほしい。
役立っている知識のほとんどは学校で学んだことではないことにも気づいてほしい。
実際、それよりか、「人付き合い、集団行動のスキルを身に付けられる」ことが最も大きなポイント。
学年が低いほど特にその色は濃い。
そのことも一般的に全く目につけられていないわけではないものの、やはり「学校=授業それが肝」のように見られているのが現状。
勉強など学校に行かなくても、むしろ行かずに自主的にした方ができる。
それに対して「人付き合い」は相手を必要とするため自分だけの力ではできない。
様々な人と強制的にやりくりどうこうさせられる、
どでかいコミュニティの輪の中で苦手だろうと何だろうと無理にでも「全員同じように」する、そんな学校はそのスキルを身に付けるのに最適。
皆学校で人付き合いをする中で社会で生きる上でのコミュニケーション能力
(「人」と関わる方法、「人」と関わるための精神力)を身につけ、そして大人として生きている。
幼いころから通っていた「学校」が土台になっている。
ただそれのためだとしても「日々長年長年通い続ける」というのはいくらなんでもしつこすぎる。
価値的でない。
「馬鹿らしい」しか表現できる言葉が浮かばない。
コミュニティで満ち溢れた学校は、即ち「思い出を作る場」でもある。その色も濃い。
「日々長年」通い続けるわけだ。相当愛着が湧く。
その後のもっと長い人生の中で大切なものになる。
とはいえ、別に思い出も生きる上で必須ではない。
全員強制的に思い出作りされる意味がわからない。
1番酷いのは授業内容。
学校をあからさまに「学ぶ場」とみるのは間違い。
正しくは「学校特有のこと(大多数の人にとって価値のないこと)を学んだりする場」。

…学校の内容、教育は人を強く洗脳させるものでもある。
というのも、この社会では一般的に「教育」という概念自体が洗脳。
教えた通りにさせようとするわけだ。
教育=洗脳。
教育施設である学校は、洗脳施設とも言える。
人は学校、親に動かされるがままに流れで最終的には強引に本格的な社会人の一員にされる。
そう動かさない学校、親は1つ(1人)として存在しない。
そういった社会(世界)。
学校は国民全員を真っ当な社会人、即ち「国のために労働してもらえる人材」に仕立て上げるための洗脳施設とも捉えられる。
教育の目的は、人を国に尽くさせることとも言える。
「教える対象の人が凄まじく多い」ことがまたポイント。
同時に大人数に教える上、どの学校も教育内容は基本同じ。
学校は国中にあり、誰しもがそこで教育されるわけだ。
国に生きる人間全員に、同じことを同じように教える。
「教えた通りにさせようとする」その対象の人は、国民全員。
「全ての人」を洗脳させる。
学校は恐ろしい施設
「そこらで教える固定された内容=真っ当」とされる。
真っ当の内容通りにすることが良いものと押し付けられる。
で皆同じように、その通りにする。
同じように教わり、同じように洗脳され、同じようにする。
そんな中で人は皆、マニュアルに沿ったこと、皆に習った行動、事例に基づいた考え方、人の定めたやり方に基づいたことしかしなくなる。思わなくなる。
固定概念に捉われがちになる。
何でも自分なりにせず、何かに基づいたことしかしない。
即ち人は皆同じになっている。
気づいている人はいないが、皆同じように同じことしかしなくなっている、考えなくなっている。
これだと人は「新しいこと」を生みにくく、進歩しにくい。
つまらない洗脳社会。
社会の施設、社会のもの、立派なものである学校やそれを取り巻くものに大々的に教えられたら、鵜呑みにしてしまう。
どうとでも思い込ませられてしまい兼ねないにも関わらず、普通皆それは「絶対」だとして認識してしまう。
説得力があるわけだ。洗脳力も凄まじい。
「社会は絶対だ」とそう認識させることを洗脳する社会であり、知らず知らずにでも皆そう認識するようになっている。
…良くない。
まあ「皆同じ」になると、人どうしは考えが合うようになり、対立が起こりにくい。
そこはメリットとも捉えられる。
しかし、そもそも考えが合わなくても良い社会であれば、良い話。
違いを認め合うことが常識で、普通でないことを悪く見られない(それも普通な)そういう社会が理想。
重要なのは騙されないこと、洗脳されないこと。国に操られないこと。
騙されず、洗脳されず、操られず、理想、幸福、最善を、自ら導き出すべき。
「人と同じことを同じようにすることが真っ当でありそれが良いこととする」「普通を信仰させる」
「目的なしでも嫌でも無意欲無関心でも関係なしで行動させる」「示すことはなんでも正しいと思い込ませる」
「流れで誰しもを強制的に金を稼ぐ人にする」「必要性の薄いことを学ばせる。それもあまりにも長い期間」
「学校は勉強の場だと思わせ、学校に行かないと勉強できないと思わせる」「学歴を重んじる」「今の社会に合わせる」
あれなポイントはこれら。
人生を無駄のない良いものにするために。これらの良くないことを認識しよう。




この社会における最善の学習法

学校の教科書を全て読み尽くし、その内容を全て把握する。
それで学力は「学校を出た人と同じ」になる。何せ教師が教えることは教科書の内容だから。
学校で学ぶ人達よりも遥かに早い時間でそうなれる。
学校には行かない。
でそのことは公表しない。
行っている(いた)と偽る。
そう嘘をついて生きる。
嘘の内容に関して詳しいことは、予め考えておくしかない。
偽っても、学力は「正式に学歴を得た人」と同じなのだからわからない。
偽らない(学歴無を公表した)場合、「それだけ」で誰しもからその人はこの世の何もかもがわからない人間と信じ込まれ、相手されない。
そういうものだという常識があること、常識を信じる常識があることにより、誰しもがそう認識する。
実際にはその人の何を見ることもなく、その様。
馬鹿げている。
そんなだからこそ、嘘でどうにでもできるわけだ。
そういった社会(世界)。
説明しても常識外れなので誰にも全く受け入れられず、全くわからない。
何もかもがわからない人間と信じ続けられる。
良いことをするためには嘘を言わないといけない。悲惨。
人付き合いはそれを学べること少しやってみて学べばとりあえずそれでいい。
それが最善。価値的。(あくまで個人的見解)
価値的で無駄なく楽しく過ごせ、同年代の人達よりも実質経験実績豊富になれる。
最善だから、筆者はそうするかといったら…しない。
なぜって「普通を経験しておきたい」ことと、「嘘を言うことが好きではない」ことによる。
前者に関しては、そう思うのは、これまでそのことに執着してきたからのようにも思える。
人生やり直しになったとしたら、そうは思わないかもしれない。
(そうはしたくないわけだが)仮にある程度この最善の学習法に基づき学校に行かなかったとしたら、
極力そのことを知られないようにはするが、絶対にそのことに触れないといけないような場面では、嘘はつかない。
嘘をつかないことにより、良くないことがあってもしかたない。
「「社会が馬鹿げている」」だけ。
そのことを訴える。
この最善の学習法、誰もしない(そもそもこの社会では周囲からの圧力によりできない)と思われるが、参考までに。
ちなみに筆者は普通を経験しておきたく、「普通を経験」することに拘ってきたわけだが、気持ちではそうだというだけ。
(ビビると思うが)学校で学習したことはない。人から教わったこともない。知識はほぼ全ては単独で学び身につけたもの。
即ち、誰の影響も受けていない。
注意。そのことは↑で言った通り、凄くもない。
もう人の影響をもろに受けることはない。なぜって、大人になったからだ。
誰の影響も受けずに知識を得て、自分の考えもできあがった。
…これはある意味自慢。




最善の社会における学習

学校はなし。
本当に必要な点(文字等)のみを自主的に学ぶ。
必要とあらば深いことも学ぶ。
最低限のことを身に付けたら、その人は大人として認められる。
少し頑張れば一桁の年齢でも大人になれる。
一桁で下準備を終え、人生の本番を迎えられる。(なんとも素晴らしい)
で学ぶことは強制しない。
学びたいと思わないなら、学ばなくて良い。
学習というのは、「本人のやる気」が鍵。
当然なのに、この世界ではさほど当然のようには思われていなかったりする。
何でもそうだが、やりたくもないことをやっても身にならない。
何せやりたくなわけ。単純。
本音は乗り気がく、内容を身に付ける気がない。
時間と労力を無駄にしてしまい、せっかくの人生が、惜しいことになってしまう。嫌な想いもしてしまう。
価値的でない。
学習の価値がわかる時、あるいは学習の面白さがわかる、やりたいと思う時が来たなら、その時にやればいい。
そうすれば学ぶことが本当にはかどり、学びが本人にとって価値のあるものになるだろう。
「その時が来ない」ならやらなくていい。
まあそのようなことはそうそうない。
なぜって、誰も永遠と勉強を押し付けてこないとなると、そのうちすぐに「今後どうやって生きていくのか?どうなっていくのか?」本人が本気で考えることになる。
ですぐに皆不安が煽り学びの価値に気づく。
そういう流れに至る。
興味がなくやる気が薄かったころに嫌々習っても内容はあまり頭に入らない。
後々「その時」が来て、しっかり習いたかったと思っても、普通気が引けてしまい、再び習ったりはしない。
1度習ったことを後々再び…となると、後戻りするようだから。
「1度習った」という事実のあること。馬鹿らしくも思える。
そもそも習っていなければ、さほどそういうことはない。
そういう意味でも、意欲のない人に強制的に習わさせるべきではない。
稀だろうがいつまでもその時がなく、学習しないならしないで、その人にはそれでもいいという答えになる何かしらの考えがある。
その人がそれでいいなら、それでいい。そう見る。考えがあるなら大丈夫。

学歴、資格の概念もほぼなし。
人は皆、「学歴、資格で人を見る」から良くない。
皆それが個人を表す全てであり、絶対的なものだと認識している。
皆「学歴」と「頭の良さ」を同義語のように認識している。そう認識するのが一般常識。酷い。
「学歴、資格(社会での証)」と「その人の能力、知識」は必ずしも等しくない。
それをなぜか皆全くわかっていない。
実際、そういった証を持っていないことと同じでも、取得できてしまっていたりする。
証は必ずしも正しくない。
何せ「証」。人が定めた概念に過ぎない。
皆学校という場に行かないと、行って学歴を得ないと、資格を取るということをしないと、絶対に知識を得ることはできないものと思い込んでいるが、それはおかしい。
その考えが正しくないことだけでも認識してほしいもの。
人の能力の判断基準は「学歴」というものではなくて極力「今のその人自身」と見る。
大事なもの見るべきものは「資格」「証」「学歴」などというものではなくて、その人の本当の中身。
資格などは口でいくらでも偽れる。本当の中身は偽れない。
上の学校になると、そこへ行く目的は「学歴」という名の証を得ることだという人がほとんど。
良い職に就く=「「金儲け」」のために「証」を手にする。
証に目を向けるばかりで、「学習」自体の意味をよくわかっていなかったりする。
証を得るための試練としか思っていなかったりする。
学習自体に興味がない、あるいは意味不明でやっている、あるいは社会に操られるがままで何も良さを感じていない…
そんなでは増して大事なことは身に付かない、捗らない、ひたすら苦しい。
そうなってしまう良くない社会。
授業内容があれなので、本当に無意味な試練でしかないようなケースが幾度だが。
また有能でも、証を持っていないことにより、何もできない人もいる。
何かするためには、証を得る(即ち人に自分の力をわからせるために長い時間と労力を費やす)ことをしないといけない。それも本当馬鹿らしい。
証がなければいくら実際有能でも人からは「有能との思い込みだ馬鹿だ」どうこうと思われるのみ。
「人に自分の力をわからせるための努力」。考えようによってはそんなものは不要。
不要なことをさせて、人から時間などを奪ってしまう。
良くない社会。
また大多数の人は、長い間目的もなしで学習している。
将来の夢~だとか、皆曖昧でちょくちょく変わるわけだ。そういうこと。
社会に親にされるがままにさせられるので、そうなる。
大学生にもなって目的なしで学習している人も多い。
「そこへ通う」ことをするのが常識だから、勧められるからなどという理由で何となく通い学習することにしている。
大学は基本1つの専門的なことを習う。
目的がありそれを習いたいから行くではなく、行くと決めてから何の科目を習うか決める。酷い。
目的なしで価値的な学習はできない。
やる価値も感じられなければやる気力も湧かない。無駄ばかり。
…そうなってしまう良くない社会。
尊い「人」という生物が無駄ばかりしてしまう社会。
その時必要としていないことを教えてもしかたない。
人生の中で必要かどうかもわからない不透明なことなら尚更あれ。
忘れるし本気で身につける気にはならない。
教える側の強制ではだめ。
そもそも今必要としていないのだからあまり意味がない。
そんなこんな今の現実社会は「最善」には程遠い。。
解体して最善に近づけ、良い社会にしたいもの。

…一個人の力ではどうにもならないが、ここで述べたような社会になってくれるといい。
身近な環境くらいなら、なんとかできるかもしれない。そうしていきたいところ。
ちなみにユートピリアは、学習に関しても最善。



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