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宗教
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思想があり、それを人に教え弘め、信じさせる宗教。
そんな宗教全般、その思想の中には必ず以下の概念がある。
①死後の世界がある ②神的なものが存在する ③信仰すると神的なものから恩恵を受けられる
(恩恵というのは具体的に言うと、素晴らしいものになれる、素晴らしい場所へ行ける、福が付く、願いが叶う等)
↑これら3つの概念が、全宗教の肝心。
肝心であるそれらは全て…正しくない。即ち言ってしまうと、真実は嘘。宗教は嘘。
(わかりやすく説明するため、批判を覚悟しあえて「嘘」という言葉を多用させてもらう)
即ち命が尽きたら「そこまで」。死後には何もない。
その神もいない。だから当然、恩恵もない。
信仰することによりそういった思想通りのことがあり、その通りになるような宗教は「1つも」ない。
きっぱり言ってしまったが、それが真実。
開祖は皆、嘘を弘めた。
嘘を弘めるなど酷い、嘘ということは何もない詐欺…などと思うかもしれないが、そういうつもりはなく、そうではない。
それなら世界中に無数に存在しているわけがない。
嘘は嘘でも、方便(信じれば幸福になれる嘘)。
そういう嘘もある。
人々(信者)を幸福にするための手段として嘘を用いている。
だから悪くない。
信じないと幸福になれないため、「嘘」とは決して言わない。言ってはいけない。
「死後の概念(死生観)の嘘を信じさせる(それを信じると幸福になれる)」理由は、信じることにより、楽観的になれるから。
死後そのまま滅せず、素晴らしいものに転生できるなどということなら、
避ける手段のない人生最大の苦難である「死」を迎えることに対する恐れを軽減させることができる。
それを軽減できるなら、心は相当安堵し、楽観的になれる。
楽観的になれている方がいろいろな面で明らかに良い。あらゆるメリットがある。
もしもすぐに死を迎えることが確定的になった場合、その人はそれだけでこの上なき恐怖心で胸が苦しくなることだろう。
そこで表れる肉体的苦しみ(死ぬ苦しみ=死ぬような苦しみ)を乗り越える必要もある。
乗り越えたところでその先に自分の生きた世界はない。
そう考えると把握できるだろう。死の恐怖を。
宗教の思想に必ず死生観がある理由も、把握できるだろう。
若く健康だとピンと来ない場合が幾度だと思うが、その時が迫ると、多くの人はそれを真面目に考えることになり恐怖心は強まっていく。
神的なものの存在(嘘)を信じさせる理由は、この世の究極的なことを例えるのに都合が良いから。
それに例えると人が理解しやすい。
そのため必ず究極的なことを取り上げる宗教のその思想の中には慣習的になるほど専ら神の存在がある。
「存在する神的なものから恩恵を受けられる嘘を信じさせる」理由は、2つある。
1つは信じればそれにより、救われた気分になれ、心が安堵するから。
願いが叶うなら、どんな不安も吹き飛ばせる。究極的なこと。
そんなことがあることを信じれていれるということは、それだけで凄く幸せなこととも思える。
落ち着かずにいるより、安らいでいる方が言うまでもなく良い。幸福。
もう1つは信じることにより、引き寄せの法則
(こうなってほしいなど強くと願うと、自然とその願い通りになるための行動を自ら精力的に起こしていき、いずれその通りになる法則)を最大限に引き出せる。
恩恵を受けられている!などといい(思い込みではなく)「本当に」それらしい人には、
その法則が発動している、即ち単に自分の行動が自分の良いように良くできているだけにすぎない。
だがそれをわかってはいけない。
法則の発動率を高めるためには、神だのを信じていることが重要。
恩恵は引き寄せの法則。
宗教はそれを引き起こすためのものと言っても過言ではない。
認識は信じることしだい
(←詳細)であり、信じることにより、信じる通りに思えたりする。
そして確信を高めていく。
即ちずっと信じ続けていられる。
それが人間のおかしな気質。
宗教は人のその気質を上手く利用している。
ある程度高水準(知的)な人の場合は、さすがに信じれない。
そういう人は宗教に向いていないと言える。
向いていない人は信徒になってもあまり良いことはない。即ちなるべきではない。
それ以前に、そういう人はある程度真実が理解できるので、方便(宗教)にすがる必要はない。
すがらない即ち信仰しない方が「無駄なく」生きていける。
真実にすがるのが適切。
自分の考えも持てているはず。即ち宗教の教えは不要。
人はそれぞれ能力、目的、考えが違うために、宗教は人に応じ、価値のある場合とない場合とがある。
即ち衆生に布教させることが理想ではない。その考えは間違っている。
開祖は嘘とわかっていて言っている。
それは人々のため、人々のことを考え、人々のためを思って言っていることであり悪くない。
形はどうあれ、信じる即ち信仰することにより良い人生を送ることができる人が無数にいる。
心の状態を上手く調整(マインドコントロール)させられるということは素晴らしい。
嘘により良いようにそれができる。
宗教は「信徒をマインドコントロールさせるもの」でもある。精神操作の極み。
それを悪く受け取るのは基本、間違い。
要点はそこ。
「嘘でメリットが得られる」それが宗教であり、宗教の真実。
本来は。
だが「そんなこんなで断じて嘘とは言わない」ために、その真実(宗教の真実)がその宗教の後継者に伝わらず、
嘘で人々を幸福にするというその思想が受け継がれていないことがある。
よって、その後は嘘を真に受けそれを本当だと思って進行体系を再編し弘める教祖も多い。
それでも元の教えに基づいているわけなので、ある程度人々を幸福にすることはできる。
だが、「馬鹿げたこと」や「迷惑なこと」をすることも多い。
間違えており、それは本来の思想ではないので当然。
宗教の目的とは、「嘘で人々を幸福にすること」。
宗教が原因で争い合うようなこと、人を不幸にする嫌がらせるようなことは、本来あってはならない。
そうなるような宗教は、本来の願い、本来の形が崩れ、脱線した宗教。
本来なら宗教とすら言えない。
開祖が見たら悲しむ。
長い目で見ると「嘘で人々を幸福に」が肝心だということを後世に伝え続けることを強くさせようとしなかった開祖達もある意味問題といえばそう。
といってもその時は、嘘だという事実がわからなくなった方が良いと見る方が無難な考え。
何せ本気で信じさせることも重要。
ともかく、後の人は宗教をあまり良くない様にしてしまった。
「嘘で人々を幸福に」が根本だということを把握する。
難しいところだが把握していいのは宗教の頭に立つ人間のみ。
宗教で重要なことはそれ。
嘘は、いろいろ間違いを起こしやすい。
それが嘘の欠点。
宗教を巡り良くないことがあることも多いのは、やはり嘘だから。
社会で尊敬される、そういうことになるほど学習し、修行した人達が、昔の嘘の話を本気で探求し、そのことに時間と労力を注いでいる…
よくあるこの様は、真実を知る人から見ると、見るに堪えない。
嘘なのだから、嘘で捕捉してもいい。
難なら0から嘘で教義を作り直しても問題ない。
信憑性の有無があるので、その探求も(信憑性を上げることに利用するという意味で)あからさまに否定はできないが、
新たなものを生み、新しい道を開拓するのも良い。
死後や神などの肝概念は事実ではないが、それらとは直接関係しない思想(教義)は基本、事実。
事実として評価できるもの。
信仰しない場合、そこを抜き取って見るのも良い。
現実離れした死後や神の思想に惑わされ、触れない人もいるが、それは惜しい。
信徒になることはせず、方便とそうでない箇所(事実)とを見極めて、事実の思想を受け取る形で触れるなら一般的にも価値がある。
この世、生死など究極的なことに関する思想。それを人に教え弘め、信じさせる。
それが宗教。
教え弘め、信じさせることをしないのならば、それはただの思想。
この世が何かわからず不安な人に明るい考え(思想)を与え、人を明るく幸福にする。そういった意図を持つ。
即ち信じれれば、信じることで幸福になる。
人を明るく幸福にする思想は真実でも嘘(作り話)でも良い。
マインドコントロールを良く利用する。
それが肝心。
究極に究極的(神秘的)なことは全て嘘であるため、残念ながら実質そういった力による恩恵はない。
だが信じていれば、その人は事象をそれにこじつけて見るので、信じていれる。
それが人間の性質。その性質を利用している。
実質神秘的な力は存在しないが、信じて信仰すればその力が働いたことと同じことになる結果が出たりする、そういった教えもある。
それを狙って嘘を信じさせたりもする。
宗教は思想。思想は知恵。即ち知恵の世界とも見れる。
※生老病死を乗り越えられず、こういった宗教がまだ現役である21世紀の一般人にこのようなこと(宗教の真実)を伝えてしまうのは本来いけないこと。
だがこう言っても21世紀人はほぼ誰も信じない。
そのことは明白。
だから問題ないと判断し、真実を明かした。
過去のあらゆる人物の心を知れ、この真実が明らかとなるのは2700年頃。
それ以前のいつの時代にも、この真実をある程度理解している教祖がいくらかいる。
だがいつの時代も、そういう人と理解していない人とが混在している状態であるため、支離滅裂になり結局は良くわからず良くないことになっている。
宗教は嘘。だが良いこともある。だからなくならない。
2200年頃、科学技術により不老不死になれるようになる。
2400年頃、何もせずに一瞬で即身成仏できるようになる。
すると、当然ながら今の宗教は全てなくなる。
その後あえて煩悩を呼び起こしたり死を感じてみたりしてスリルを楽しむ宗教「逆宗教」が生まれていく。
2400年以後の視点で見て、宗教に存在価値があったかというと、微妙なところ。
適切に実践せず、信仰する人にもしない人にも大きな苦を植え付け続けた。
そうでなくても基本、無駄(活動の際余計に費やす時間と労力)が多い。
信じていると楽を感じていることも多いが同時に、教義に反する心が出てしまった時などに不安も感じやすい。
どちらかというと、プラス効果よりもマイナス効果の方が大きかったように見受けられる。
また2400年以後、それ以前に存在した宗教の教義を適用した架空世界(宗教真世界)が作られる。
そこは、この世界の人々に人気となる。
21世紀の宗教信仰者に配慮し、最後に一言。
この真実の教えを信じて信仰することが、真の真実の教えを上手く実践することに繋がる。極上の方便。そう考えてみることもできる。
嘘だと信じることは、真実を信じること。
嘘ではないことは、そう信じることにより逆に真実に近い的確な視点で見れる。
知力、把握力がないとだめだが、あるなら(その人に限っては)できる、より高い水準の良い信仰法。
★ 過去仮説 ★
★ 浄土宗 ★
提唱者:法然
良さ :★★☆☆☆
提唱年:1175年
面白さ:★★★★★
ユーモアある発想。
死を恐れる不穏な心を安らげることができる。
その点に特化した思想。
早く死を迎える時が来てほしいとまで思えてくる。素晴らしいこと。
現世利益はないように言われるが、心を安らげるそれこそが現世利益。
それが、信じることにより得られるメリット。
安らぐと清純になれる。
死に恐怖心を抱いている人、生きることに執着しない人におすすめ。
競争心がなく頑張らなくて良いと思う人、自分に自信がなく使命感を感じていない人が、生きることに執着しない。
即ちそういう人におすすめとも言える。
生きて、何かした成果を多く世に残したい…
そういった人は、死をある程度重く見て現世を生きることに全てを捧げるつもりで頑張るのが幸福。
世のためにもそれが良い。
死後や来世のことを考え活動し、現世を疎かにするようなことは好まない。
また死後良い場所へ行かせてもらえると信じることにより生まれる(行かせてくれる如来への)感謝の気持ちにより、
自分を善人だと自覚する気持ちが芽生え、気持ちが上がる。
気持ちが良くなるので、多少体の状態も良くなる。
これがもう1つの現世利益。
重要なのは信じる心。
主な現世利益はというと、それくらい。
信徒が多いのはたまたま。
如来や浄土は実質存在しない。
しかし2400年代にそれらが存在する世界が作られ、阿弥陀如来に会いたい、極楽浄土へ行きたいなどという人々の願いは、現実世界にて叶う。
内容
阿弥陀如来(言わば神)に帰依(信じて崇拝)し念仏を唱える(帰依を伝える言葉を連呼する)ことにより、
死後阿弥陀如来のいる浄土(神のいる世界)、極楽浄土(言わば天国)に往生する(行く)ことができる。
極楽浄土にて修行することにより、成仏できる(仏になれる)。
そこからは努力が必要になる形だが、努力により苦を感じることはない。
何せ極楽浄土はそういう世界。
死がなく(常時生き続け)、苦がなく(楽)、不自由なく(我は自由)、汚れがない(心も何もかも浄化されている)常楽我浄の世界。
現在は末法の世(信仰しても効果がない時代)であるため、現世から直接成仏することはできない。
修行(努力)せずに他力で天国のような地へ往生できるため得。
(内容的には)ほぼ現世を見放した教義になる。
ほんの少し唱えれば往生が約束される。
その後も多く念仏を唱え続けるようにと教えるが、そこへ往生させてもらえることへの感謝を伝える意味合いを込めてのものになる。
※無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経(浄土三部経)の法然流解釈。
提唱年を1175年としてあるが、ベースの教え(浄土三部経)ができたのは紀元前後。
実質、浄土も来世もないので、現世に利益がなければ何にもならない。
教義上はないが、実質現世利益があることもあり、弘まった。
方便の力は強い。
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